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非暴力による戦い ③

 1954年のブラウン判決の後、黒人活動家たちは公民権獲得のための戦いを開始した。
 その戦略は”非暴力”だ!

 1957年9月、アメリカ南部アーカンソー州では、9人の黒人生徒が学校統合のために戦った。

 1954年のブラウン判決は、”教育機関における人種分離は不平等”と認めた。
 この判決により、アメリカ南部の”分離すれど平等”という基盤が覆された。
 この原則に基づけば、その他公共施設における分離も不平等となる。
 ブラウン判決以降の公民権運動は、各公共施設で抗議を行い、最高裁判所に、”分離は不平等”を認めさせる作業だった。 

 今回は、ノースキャロライナ州で起こった、グリーンズボロ・フォーによるシット・イン抗議運動のお話です。

グリーンズボロ・フォー

 グリーンズボロ・フォーは、ノースキャロライナA&T大学(North Carolina Agricultural&Technical States University)に通う、4人の大学生を示す。
 イーゼル・ブレアー
 デイヴィッド・リッチモンド
 フランクリン・マッケーン
 ジョセフ・マクニール

 同じ大学の寮で暮らすティーンエイジャーの彼らは、ブラウン判決後も南部の人種差別が変わらないことに憤りを感じていた。
 エメット・ティル事件に対する怒りは抑えることができない。
 自分たちが白人や他の人種より劣っているとは思えない!

 よし、行動を起こそう!

 1960年2月1日、彼らは、ウールワース(スーパーマーケット)へ行き、その中にあるレストラン、白人だけのランチカウンターに「シット・イン(座り込み)」をする。
 ローカルニュースに取り上げられたら、なんらかの影響を与えることができるに違いない!

シット・イン

 シット・インは、抗議相手に抗議の意を伝える方法だ。
 座り込み、その場に留まることにより、ビジネスに損害を与えることが可能になる。
 グリーンズボロ・フォーによるシットインは有名だけれど、実は、それ以前にも、同様の抗議運動は行われている。
*今回はカフェテリアのシット・インにフォーカスします。

①シカゴ
 1942年、シカゴ大学の学生が行ったランチカウンターのシット・イン。
 中心となった人物は、ガンディーの非暴力主義を唱えるジェイムス・ファーマーだ。 
 
 「非暴力主義によって公民権を獲得しようとすると、時に自分自身が人種差別者による暴力のターゲットになる」
 
 FOR(反戦主義者団体)のメンバー、後のCORE(人種平等会議)の創設者で、キング牧師に影響を与えた人物でもある。

 1942年5月、ジェイムスを含む27名の若者(その多くがシカゴ大学の学生)が、黒人へのサーヴィスを提供しない「ジャック・スプラット・コーヒー・ハウス」でシット・インを行った。
 この時代、黒人の抗議運動に注目する人などほとんどいない。

 「シカゴトリヴューンが、”数名のクレイジーな若者がレストランで座り込みをした”という、小さな記事を書いてくれればラッキーだ」

 この程度の期待だった。
 初日、30席ほどしかないレストランは、抗議をする黒人でほぼ満席になった。
 ウェイトレスはカウンターに座る2人の白人客の注文にしか応じない。
 後から入って来る客は、その様子を見て、静かに立ち去るか、同情的な面持ちで様子を見守った。
 警察が到着したけれど、イリノイ州の法律を破っていない彼らを追い出したり、逮捕することはできない。
 結果、レストランは、掲げていた反黒人のポリシーを取り下げた。

 この抗議運動は、その後アメリカ北部で広がり、1950年代後半には、南部でも同様の運動が始まった。
 ところが、南部の白人や警察官は、北部のように様子を眺めているだけではなかった。

②ノースキャロライナ州ダーラム市

 1957年6月23日、ロイヤル・アイスクリーム・パーラーで、7人の若い活動家がシット・インを行った。
 白人限定のテーブルに座った彼らは、黒人席に移動することを拒否、逮捕される。
 この逮捕は、”分離は不平等”に矛盾する。
 7人を先導し、共に抗議運動に参加したムーア牧師は、ただちに訴訟を起こした。
 白人裁判官と陪審員による裁判は、もちろん有罪だ。
 最高裁判所は・・・訴訟を却下した。
 結果、この裁判は敗訴に終わる。
 ロイヤル・アイスクリーム・パーラーとムーア牧師の戦いは、その後6年間、オーナーが店を売り渡すまで続いた。

 この抗議運動は失敗に終わったけれど、後のシット・イン、そしてアメリカ南東部の活動家に影響を与えた。
 ボストン大学でキング牧師とクラスメートだったムーア牧師は、

 「地域における非暴力運動は、全国的な運動につながる」

 という信念を持ち、1950年代、地域の人種統合に尽力した人物だ。
 また、黒人コミュニティで、政治的活動を組織する場合、教会が中心的役割を果たすと認識していた。
 ”非暴力抗議”を行う若い活動家を育て、1957年に結成されたSCLS(南部キリスト教指導者会議)では、若い活動家(ACT)の指導を行った。
 ロイヤル・アイスクリーム・パーラーの抗議は、ACTのメンバーによって行われた。 

③オクラホマ州オクラホマ市

 1958年8月19日から21日までの3日間、オクラホマ市の「カッツ・ドラッグ・ストア」で起きたシット・イン。

 クララ・ルーパーは、オクラホマ市の高校教師で、活動家、オクラホマ州のNAACP青年議会のアドヴァイザーだ。
 ある日彼女は、生徒を連れてニューヨークへ行く。
 そこで生徒が目にしたものは、人種隔離のない環境で暮らす黒人だ。
 娘のメリリンがママに尋ねた。

 「私たちもレストランに入って、ハンバーガーとコカ・コーラをオーダーしてみたら?」

 ルーパーは、数年前から、市のレストラン団体に対し、人種隔離撤廃の交渉を行っていた。

 「No!白人客は、カラードの隣に座りたくないのよ。
 オクラホマ市のレストランで、カラードが食事をすることはできません!」

 市の返答は一向に変わらない。
 ルーパーは、娘のアイデアでシット・インを決断する。
 参加する生徒は13人、その中には7歳の女の子もいた。
 余談だけれど、将来のカニエ・ウェストのママもその中のひとりだ。
 決行前、ルーパーは生徒を集めて、市民的不服従(特定の法律や命令に非暴力手段で公然と違反する行為)について、そして対立相手に対するリアクションを説明した。
 
 1958年8月19日、ルーパーと子供たちはダウンタウンの「カッツ・ドラッグ・ストア」へ向かった。
 白人オンリーを掲げる店だ。
 カウンターに座った彼らはそれぞれ、コカ・コーラとハンバーガーをオーダーする。
 もちろん、彼らにサーヴスをする従業員はいない。
 シット・インから数時間後、白人暴徒が彼らを蹴り、殴り、彼らにつばを吐き、液体をぶっかけた。
 翌日、彼らは再び店を訪れた。
 翌々日、店を訪れた彼らに、ひとりの従業員がオーダーに応じた。
 カッツ・ドラッグ・ストアの人種隔離が終了した瞬間だ。
 
 このシット・インはオクラホマ市のダウンタウンから、市全域のレストランに広がった。

 1960年2月1日、グリーンズボロ・フォーによるシット・インは、このような経緯を経て起こった。

グリーンズボロ・フォー:シット・イン初日

 ウールワースに着いたグリーンズボロ・フォーは買物をしてからランチカウンターへ向かった。
 コーヒーとドーナツを注文した。
 
 「ここではニグロにサーヴィスはしないんだよ」

 従業員に断られても、彼らは動かない。
 
 「そのうちあきらめるから放っておけ」

 オーナーの言葉に従い、マネージャーは警察にも連絡をせず、4人を追い出すこともしなかった。
 この夜、寮に戻った4人は、シット・インの参加者を募った。

2日目

 20人近い学生がシット・インに参加した。
 カウンターで勉強を始めた彼らに対し、白人客が文句を言い始めた。
 ローカルニュースのリポーターが訪れ、警察官も終日、店で警備を行った。
 けれども、大きな騒動にはならなかった。
 その夜、学生執行委員会が組織され、ウールワースの代表充てに手紙を書いた。

 「私たちはこれまで御社で何百、何千という商品を購入しました。
 従業員はとても礼儀正しく私たちのお金を受けとります。
 けれども、そのすぐ隣のランチカウンターでは、私たちのお金は拒絶されます。
 理由は、私たちの肌の色です。
 どうか、差別撤廃のために、毅然とした態度で臨んでください」

 この状況を知った大学側も生徒をサポートした。

3日目

 抗議者は60人以上に増加した。
 近隣の高校生、そして女子大生も加わったことで、抗議者の3分の1は女性だ。
 この日、状況は激変した。
 白人が暴徒化し、カウンターに座る黒人の頭に液体や調味料をかけ、肌にタバコを押し付け、顔にツバを吐きかけた。
 そこにはKKKのメンバーもいた。
 ウールワース本社は、地域のポリシーに従うことを表明した。

4日目

 抗議の参加者は約300人となり、ウールワースのカウンターは黒人に占拠された。
 注目すべきは、勇気ある3人の白人女子大学生が抗議に参加したことだ。

 「あなた達のしていることは正しいわよ」

 少ないけれど、そう言ってくれる大人もいた。
 執行委員会は、S.H.クレス(デパート)でも抗議運動を開始した。
 ウールワースとS.H.クレスの代理人との交渉が行われた。
 けれども、ランチカウンターの統合は受け入れられなかった。

5日目

 白人の対抗が始まる。 
 白人学生も加わり、約50人の白人が、ウールワースのカウンターを占拠した。
 店内は300人以上の人であふれ返った。
 店の外では、サインを掲げたデモ隊が、店内の抗議運動をサポートした。
 警察は、暴言を吐き続ける2人の白人客を追い出し、3人の白人を逮捕した。

 再び、学生と店側の交渉が行われるが、決裂に終わる。
 ターゲットにされた店側が、学校理事に仲介を要請した。
 生徒をサポートする大学理事たちのアドヴァイスは、一時的なカウンターの閉鎖だ。

6日目(2月6日 日曜日)

 執行委員会は学生を集め、交渉継続をするか否かの多数決を取った。
 集まった1400名の学生たちの答えは・・・

 継続!!!

 この日、千人以上の学生が、ウールワースに訪れ、カウンターを占拠した。
 午後1時、ウールワースに爆弾予告が入る。
 学生は、ただちにS.H.クレスへ場所を移動する。
 けれども、ウールワースの爆弾予告を聞いたS.H.クロスも、ただちに店を閉鎖していた。

グリーンズボロ・フォーによる影響

 4人だけで始めたシット・インは、南部諸州に広がり、3月末までに、北部を含む13州55都市で、同様の抗議運動が始まった。
 ランチカウンターだけにとどまらず、交通機関、プール、図書館、美術館、公園、海岸など、あらゆる公共施設で行われた。

 ランチカウンターに与えた影響は膨大だった。
 売上げは3分の1に暴落し、オーナーたちは、そのポリシーを取り下げた。

 最期まで統合を拒否し続けたウールワースの損失は、20万ドル(現在価値で2億円)以上、従業員の減給もやむを得ない状況になった。
 1960年7月25日、マネージャーは4人の黒人従業員に対し、制服から私服に着替え、カウンターで注文するよう命じた。
 グリーンズボロのウールワースの最期の抵抗で、人種分離が終わった瞬間だった。

✊グリーンズボロ・フォーのひとり、イーゼル・ブレアは、シット・インを行う前、ジェイムス・ファーマーに面会した。
 モチベーションを問われたイーゼルは、次のように答えた。

 「南部は北部とは違います。
 行動を起こすことにためらい、躊躇します。
 けれども、理不尽な社会をこの手で変えようと思ったときが、そのアクションを起こす時なのです。
 私は、自分自身に言い聞かせなければならない。
 ”No!私はここから動きません!”」

 イーゼルは、グリーンズボロ・フォーは、社会の不平等に対し疑問を持ち、立ち上がった。
 彼らの抗議プランに、何かを破壊したり、誰かを傷つけるというアイデアは一切ない。
 彼らは店に入り、カウンターに座り、礼儀正しく注文をした。
 その結果、だからこそ、シット・インは全国に広がった。

 これら生徒たちの活動と、そのパワーにヒントを得た人々がいた。
 これまで公民権のために戦ってきた、活動家リーダーたちだ!

 次回はフリーダム・ライドについてでーす♬


最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!