本当に「逃げちゃだめ」?エヴァ我流考察

おはようございます!
AMAZON_PRIME_VIDEOにて鑑賞したエヴァンゲリオン関連の我流考察です
エヴァンゲリオン関連多少のネタバレはありますが、ストーリーのすべてを正確に詳細にお書きするわけではありませんことをご理解いただけますと助かります
素人の個人の感想や連想のメモです
この考え方が絶対に正しいと押し付ける趣旨ではありませんことをご理解いただけますと助かります



エヴァンゲリオン関連
考えさせられる局面が満載でした…(-_-;)

多分
制作された方々も
百も承知で
作られているのでしょうが


やっぱり

「逃げちゃだめだ」
という
台詞の
発せられた状況を見ると

おばさんとしては

ちょっと
気になりました…(-_-;)


何と申しますか
日常のですね

学校の勉強とか
怪我やメンタルを病まない程度の部活であるとか
家のお手伝いであるとか
兄弟姉妹の人間関係とか
学校関連の人間関係とか


命に別状ないレベルで
何とかなるタイプの
軋轢は
人生を生き抜くための
シミュレーションだったりして
経験として
意味がありますし

それは
むやみと
逃げてはだめ
なのは
わかります


ただ
昨今は
学校であっても
全くの
安全とは限らなかったりもしますから

「逃げるにしかず」

の場面もあって

何とも言いきれないのが苦しいところですが…(-_-;)



エヴァの劇場版において
シンジ君が
「逃げちゃだめだ」と
自分を鼓舞していた状況は

うーん

悩むポイントがたくさんあって

おばさんは

首をかしげすぎて

何回転もしてしまいそうなんです…(-_-;)



いや
そもそも
エヴァは
なんで
中学2年生を
搭乗させているの?


大人たちは
何をしているの?


ってことですね…(-_-;)



話が飛びますが

アニメでフィクションの
キャプテンハーロックにおいて
別れじょんから節?
とかいう
三味線の曲が出てきた回で?

飛行機か
宇宙船か
Gのかかるような
乗り物を開発している
科学者であるところの
父親が

G等の
人体に与える影響を
サンプリングするような
実験機に

妻(つまりは母)

搭乗させていた


という

くだりがあったような気がするんです
不正確だったらすみません



開発から間もない
実験機を
投入せざるを得ない
戦況

ということでしょうか

実験開発の流れで

開発者の
身内から

試すしかなくて

そのまま
戦況の激化で

実験の延長線上で


妻?である
綾波

からの

息子である
シンジ

戦場に

投入せざるを得なかったと?



夫であり
父である
自分としては

(自分が搭乗しないのは
卑怯な感じもするが)


全体を
見渡す
立場であり

出撃するわけにはいかなかったと


あとは

あたらしい
機器である
エヴァの操縦に
適応するには


若いほうが順応性があった
とか

そういうことなんでしょうか?



また
シンジ君の台詞の
「逃げちゃだめだ」

戻りますが


たしかに


戦うからには
逃げ腰では
勝てるものも
勝てませんし

中途半端は
むしろ危険
という

一般的な
感覚は
分かります




結果論として
結局
シンジ君が

戦場に
立たざるを得なかったとしても



もうすこし
マシな
フォローを

周囲の
大人たちは
できなかったのかしら?ってこと



逃げちゃだめだとか
中途半端とか

それは

そっくりそのまま
シンジ君を
戦場においやった
大人たちに
お返ししたいんですけど
…(-_-;)




アニメ作品として
問題提起として

あえて
過酷な状況を
設定して
表現している
という
考え方もありますが

それに対する

大人としての
一応の

落としどころを
提示していない点に


やや

キケンを感じるわけです…(-_-;)


つまり

やみくもに

がんばるべきである

とか

「逃げちゃだめだ」


金科玉条

ぜったいに背いてはならない

であるかのように

観ている
幼い人々に
押し付けている可能性がある

そういうつもりがなかったとしても



逃げちゃだめだ

シンジ君に

自発的に?

言わしめている

大人たちは

逃げていないのか?


シンジ君に

精神的なフォローをしつつ
であれば
まだましなのでしょうが
あまり
有効なフォローをしきれているようには
見えないんですね…(-_-;)




戦闘で
周囲の街や
人々を巻き込んでしまって


例えば

学校の同級生の
妹が
怪我をしてしまって
入院することになって

それを
恨みに思われて

殴られる

というシチュエーションも

想定しなかったということ?

(子供同士の
喧嘩の態をとっているが

普通に
武器を持った
大人に
襲われる
という
シチュエーションもありうるんですけど…(-_-;)


それに
殴ったほうの
子どもも
大人の不手際の
被害者なんですわ
多分)



なんの
記者会見も開かず
なんの
護衛もつけず

あるいは

キケンを予測して

通常の
学校という

不特定多数の
子どもたちや
事情をよく知らない
大人たちの
なかに

ポーンと
放り込むようなこと

避けるとか


なんでしないのよ…(-_-;)



あと
もっとも
いやな感じがするのは

ダブルバインドですね



これは

わかっていて
そういう表現になっているのか


それとも

そういう状況が
人の心を
混乱させ
傷つけ

長きにわたって
苦しい対人関係を
あじわわせる
下地になるということを

知らずに

それが

スポーツ根性的
がんばればいいことある!


みたいな

正論?


として

提示されているのだとしたら




この

大人気の
アニメの

この
状況を

根拠にして



無意識のうちに


このダブルバインド的
状況が
正しいと

勘違いした


行動様式が


繰り返される





「アニメのエヴァンゲリオンの
シンジ君だって
『逃げちゃだめだ』って
自発的に自分を励まして
戦っていたでしょう、
だからあなたたちも
『逃げちゃダメだって』

自発的に

たちむかっていくべきでしょう」

的な


”自発的”

であることを
強いてくるような

励ましとか
指導ですね…(-_-;))



ような

そんな気がして

ちょっとね…(-_-;)


つらいのです




この
フィクションにおいて

何を
ダブルバインド
と感じたか?


えーとですね


命がけの
戦いに赴くことは

シンジ君の
自分の判断であって

「いやなら

やめればいい」


という癖に

「すぐにでていけ」


てきな
台詞が

たいがい

セットになっていることです



あまりにも
ひさしぶりに
あえた
父親

やめてもいいが
見捨てるぞ


いわれているように

聞こえるんですね



やめたら
愛さない



「やめてもいいよ」

言っているくせに


「愛さない」

とセットになっている


ということは


口では
「やめてもいい」

といっているけど


内心は
「やめてはいけない」


おどしていることになるんですね…(-_-;)



これを

命がけの
戦闘に
従事するかどうかの

葛藤の場面で

ぶっこんで
いるってことです



日常の
人間関係の
軋轢
の場面でも

よくある
ダブルバインド
二重拘束


あるあるなので

一概に

めくじらたてても
きりがない…
のかもしれませんが


死地に赴く
子ども
にむかって

そういう過酷なことを

つきつける

ってことで



あくまでも

子どもの自由意思に

任せるようなことを言って


やっぱり

死地に赴くことを
選ばなければ
愛さない



死地に赴くことを
選べば

愛してくれるのかというと


子どもが
心から
望んでいるかたちの
愛ではないことは


わかりますよね


という
えさを

ぶら下げて


どこまでも

走らせるだけの



それを



かんちがいしている



のようなものを

感じるので

なんとなく

つらいきもちに


なるのでしょうか…(-_-;)





長くなりました


結論めいたものは
出ませんが


なんとなく

つらいきもちになるのは
なぜなんだろうと


自分なりの
分析を
試みてみました





いつもおつきあいいただきありがとうございます<(_ _)>(*^-^*)




ではまた!




まきのしょうこ

















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?