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大利根月夜 田端義夫

音楽エンジョイ2023

あれを御覧と 指差すかたに
利根の流れを ながれ月
昔 笑うて 眺めた月も
今日は今日は 涙の顔で見る

愚痴じゃなけれど 世が世であれば
殿の招きの 月見酒
男 平手と もてはやされて
今じゃ今じゃ 浮世を三度笠

もとをただせば 侍そだち
腕は自慢の 千葉仕込み
何が不足で 大利根ぐらし
故郷(くに)じゃ故郷(くに)じゃ
妹が待つものを


田端 義夫(たばた よしお、1919年(大正8年)1月1日 - 2013年(平成25年)4月25日)は、日本歌手ギタリスト。本名:田畑 義夫(読み同じ)[1]第二次世界大戦前から21世紀初頭まで現役歌手として活躍した。愛称はバタヤン。水平に構えて持つ、アメリカのナショナル・ギター社製エレキギターと独特の哀愁を帯びた歌声、「オーッス!」という威勢のよい挨拶がトレードマークで、広く国民に親しまれた。


エピソードなど

  • 『かえり船』がヒットしていた当時、田端は巡業のために列車を待っていた大阪駅にて、復員列車が到着し『かえり船』が流され、復員兵と家族が再会し涙を流して曲を聴き入っているのを見て、「ああ、私の歌で涙を流す人がいる。歌手をやっていて良かったな、生きていて良かったんだな」と思ったことを後に著書(『オース!オース!オース!―バタヤンの人生航路』)に綴っている。

  • 戦前から多数のヒットを持ちスター歌手であった田端だが、NHK紅白歌合戦の初出場は「島育ち」のヒットによる昭和38年(1963年)の第14回と遅い。これは紅白歌合戦が始まった昭和20年代、凄まじい人気であったがゆえに正月興行や地方公演のスケジュールが重なって出場が叶わず、昭和30年代に入ってからは一時低迷したため出場のオファーが無かったためである(岡晴夫も同例であり、岡の場合は後にヒットに恵まれなくなり、また本人の体調も芳しくなかったため生涯紅白歌合戦には出場しなかった)。

  • かつて、地方を巡業する際に、大型バスを改造した専用の車両で移動していたことがある。昭和30年(1955年)にいすゞ自動車が納入したもので、キッチントイレ、寝室、応接室などを備えた豪華なものであった。バスに水回りの装備をするのは当時はまだ珍しく、トイレ付となると、一般のバスでは1960年代以降の登場であり、画期的であったともいえる(参考:バスラマ・インターナショナル36号)。

  • 3時のあなた』の人気企画であった「おふくろ談義」の第1回のゲストが田端で、話の途中で司会の高峰三枝子は思わず号泣してしまい、田端もそれにもらい泣きしてしまった。

  • 貧しかった幼少期、田端にとっての何よりのご馳走は、少ないお金で沢山買える紅ショウガであった。この思い出は大成してからも忘れる事無く、昭和30年(1955年)に苦労を共にした母が亡くなった際は棺に思い出の紅ショウガを花のようにして納めた。

  • 昭和54年(1979年)、旅行でラスベガスに行った時にスロットで29万ドル(当時の円換算で6400万円)を当て、日米で話題になったことがある[3]。しかし大部分は税金などで持っていかれ、手元にはさほど残らなかったと本人は語っている。

  • 「歌と女の人生」と立川談志などから揶揄されるほどの好色で知られ、齢70を過ぎてなお、「まだまだ(夜も)現役やで」と語った。ちなみに4度結婚(3度離婚)しており、次男は61歳の時の子である。

  • 田端のトレードマークの一つでもある、登場時の掛け声(「オース!」)は戦後で客席に向かって何となくやってみたところ、客も「オース」と答えてくれたことから、それ以後ステージに出れば言うようになった。昭和20年代後半、美空ひばりとの公演の際には、ひばりの母から「オースはやめて下さいよ。(田端が)お嬢(ひばり)より拍手が多いのはオースのせいです。次のステージはオース無しでお願いします」と懇願されたことがある。

  • 「同じキーで歌うことで声に張りが出る、苦しいからとキーを下げたら歌が沈んでしまうし、歌自体が別物になる。同じキーで歌えなくなったら歌手は辞める」という強い信念から、生涯すべての持ち歌のキーを下げず歌っていた。2オクターブの音域を維持するため、1日1時間の発声練習は欠かさず行い、タバコは一切吸わなかった。酒は少々嗜む程度であった。

  • 田端のトレードマークとなっているサンバースト・ブラウンのエレキギターナショナル・ギター社製の「Solid Body Electric Spanish(No.1124)」という個体である。元々2つあったピックアップは後年取り外され1つになり、それに伴って取り外されたフロント・ピックアップ用のボリューム、トーンの各つまみも取り外されるなど、長年の間に種々の改造がなされている。
    購入のきっかけは昭和29年(1954年)、当時の付き人が大阪駅でタクシーのトランクにギターを忘れてしまい紛失。その数日前に銀座のヤマハで偶然見かけて試奏し気になっていたこのギターを思い出して連絡し急遽購入したものである。
    長年の使用で塗装も剥げ、ボディーにも傷や減りがあったものの、塗装をし直すなどの補修でギターの音色が変わる事を恐れ最低限の修理に止めていた。
    テレビ出演時はほとんどこのギターを用いたが、地方公演やごく稀にテレビでも別のタイプのギターを使用する事があった。

  • 1960年代後半、音楽番組の収録で一緒になった「ザ・ゴールデン・カップス」のルイズルイス加部が、休憩時間に田端がトイレに行った隙を見計らい、田端のエレキギターを勝手に拝借しディストーションをかけてレッド・ツェッペリンの「コミュニケーション・ブレイクダウン」を大音量で弾いた。スタジオに戻った田端はその様子に大激怒し、ギターを取り上げるとそのまま帰ってしまった(「ベースマガジン」1992年2月号 ルイズルイス加部インタビューより)。

  • 一方、ハワイへ留学していた長男の義継は、1968年の帰国後、グループサウンズザ・マミーズ」を結成。ピートマック・ジュニアとのツインボーカルを担当していた。翌年の解散後は「レイ・田端」名義でソロデビューしている。田端は最初、義継が歌手になることに反対していたが、遠藤実の説得後は埼玉県富士見市にスタジオを買い与えるなど、グループサウンズ自体には理解を示していた。このことは、後年のソウル・フラワー・モノノケ・サミットとのジョイント・コンサートにも繋がっている。

  • 昭和59年(1984年)、ヘルペスに罹った際に聖路加国際病院でおこなった神経ブロックの治療に失敗し、一時下半身不随になったが、リハビリで奇跡的に回復した。しかし、晩年まで後遺症による痛みがあったという。

  • 『ふるさとの燈台』の作詞者・清水みのるが亡くなって直後にNHK総合テレビの『ひるのプレゼント』に出演し、『ふるさとの燈台』を歌ったが清水を回想して泣いてしまい歌うことが出来なかった。

https://ameblo.jp/808something2love/


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