トマス福音書を読む(その1)

我々が生まれてきたということは、「対極性」の中に生まれてきたということです。何故なら、この世は対極的なものから成り立っているからです。我々の身体は目や腕などがほぼ「左右」対称に配置され、心と体の「内と外」、「好き嫌い」、「病気と健康」、「始めと終わり」など、精神的、物理的、時間的なあらゆる対極性の中に生きています。死ぬということは、対極的な状態(2)から、絶対的な状態(1)に戻るということですが、問題はこの移行がそう簡単に行くとは限らないということです。「地獄」とは、身体を失った後も、対極性の中にいる状態と思われます。自死した結果がどうなるかは想像に難くありません。できれば、生きているうちに、私たちの「内と外」はひとつのものであることを認識したいものです。そうすれば、2からスムーズに生ける父の国(1)に入ることができるでしょう。トマス福音書では、そのような人を「単独者」と表現しています。しかし、2から1に移行するといっても、対極性を曖昧にするということではなく、例えば、大いなる愛は大いなる憎しみと表裏一体のものである、ということを知るということであり、音楽で言えば、リズムの中に生きるということです。ちなみに、酒を飲んで「前後不覚」になるという言い方をしますが、酒や麻薬というのは、正に対極性を一時的に無くすことで地上に1つの酩酊状態を作り出すものであり、実に適切な表現であると言えます。「そんな難しいこと、もうどうでもええわ!」と言うなら、それは正に悪魔(阿修羅)の思うつぼであり、「獅子に食われる」ようなものです。一方、最終的には、1ではなく、聖霊に照らし出された三位一体の状態(3)、すなわち「復活」へと進むのが理想です。それは人智学で言うところの「キリスト衝動」によって可能になると思われます。
 
トマスによる福音書
三:イエスが言った、「もしあなたがたを導く者(惑乱者)が汝らに、『見よ、王国は天にある』というならば、天の鳥があなたがたよりも先に王国へ来るであろう。彼らがあなたがたに、『それは海にある』と言うならば、魚があなたがたよりも先に王国へ来るであろう。しかしそうではない。王国はあなたがたの只中にある。そしてそれはあなたがたの外にある。あなたがたが、あなたがた自身を知る時に、その時にあなたがたは知られるであろう。そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らであるということを。しかし、あなたがたがあなたがた自身を知らないならば、あなたがたは貧困の中にあり、そしてあなたがたは貧困である」。
七:イエスが言った、「人間に喰われる獅子は幸いである。そうなれば、獅子が人間になる。そして、獅子に喰われる人間は忌わしい。そうなれば、人間が獅子になるであろう」。
一一:イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上の天も過ぎ去るであろう。そして、死人たちは生きないであろう。そして、生ける者たちは死なないであろう。あなたがたが死せるものを喰う日に、あなたがたはそれを生かすであろう。あなたがたが光にある時に、あなたがたは何をするだろうか。あなたがたが一つであった日に、あなたがたは二つになっている。だが、あなたがたが二つになっている時に、あなたがたは何をするであろうか」。
一八:弟子たちがイエスに言った、「私たちの終わりがどうなるかを、私たちに言ってください」。イエスが言った、「あなたがたは一体、終わりを求めるために、はじめを見出したのか。なぜなら、はじめのあるところに、そこに終わりがあるであろうから。はじめに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないであろう」。
二二:イエスは授乳された小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「この授乳された小さな者たちは、王国に入る人々のようなものだ」。彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、王国に入るのでしょうか」。イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにする時、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、女を女でないようにするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくる時に、その時にあなたがたは王国に入るであろう」。
三〇:イエスが言った、「三人の神々がいるところ、彼らは神々である。二人または一人がいるところ、私は彼と共にいる」。
三四:イエスが言った、「もし盲人が盲人を導くなら、二人とも穴に落ち込むであろう」。
三七:彼の弟子たちが言った、「どの日にあなたは私たちのもとに現れ、どの日に私たちはあなたを見るでしょうか」。イエスが言った、「あなたがたがあなたがたの恥を取り去り、あなたがたの着物を脱ぎ、小さな子供たちのように、それらをあなたがたの足下に置き、それらを踏みつける時に、その時にあなたがたは生ける者の子を見るであろう。そして、あなたがたは恐れることがないであろう」。
四三:彼の弟子たちが彼に言った、「あなたは何者なのですか、私たちにこのようなことを仰るとは」。イエスが言った、「私があなたがたに言うことから、あなたがたは私が何者なのかを解っていない。むしろ、あなたがたはユダヤ人のようになった。なぜなら、彼らは樹を愛してその実を憎み、実を愛して樹を憎むからである」。
四四:イエスが言った、「父を汚すであろう者は赦される。そして、子を汚すであろう者は赦される。しかし、聖霊を汚すだろう者は、地においても天においても赦されない」。
四六:イエスが言った、「アダムからパプテスマのヨハネに至るまで、女の産んだ者の中で、パプテスマのヨハネより大いなる者はいない。ヨハネを前にしてその両眼が潰れないように。しかし、私は言った、『あなたがたの中で小さくなるであろう者が、王国を知り、ヨハネより大いなる者となるであろう』と」。
四七:イエスが言った、「一人の人が二頭の馬に乗り、二つの弓を引くことはできない。一人の奴隷が二人の主人に兼ね仕えることはできない。或いは、彼は一方を尊び、他方を侮辱するだろう。誰でも古い酒を飲んでから、すぐ新しい酒を飲もうと欲することはしない。また、新しい葡萄酒を古い革袋に入れはしない。革袋がはり裂けないためである。また、古い葡萄酒を新しい革袋に入れはしない。革袋が葡萄酒を損なわないためである。古い布切れを新しい着物に縫いつけはしない。新しい着物に裂け目ができるからである」。
四八:イエスが言った、「二人の者が同じ家でお互いに平和を保つならば、山に向かって、『移れ』と言えば、移るであろう」。
四九:イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは王国を見出すであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから来ているのなら、再びそこに行くであろうから」。
五〇:イエスが言った、「もし彼らがあなたがたに、『あなたがたはどこから来たのか』と言うならば、彼らにこう言いなさい、『私たちは光から来た。そこで光が自ら生じたのである。それは自立して、彼らの像において現れ出た』と。もし彼らがあなたがたに『それがあなたがたなのか』と言うならば、言いなさい、『私たちはその光の子らであり、生ける父の選ばれた者である』と。もし、彼らがあなたがたに、『あなたがたの中にある父の徴は何か』と言うならば、彼らに言いなさい、『それは運動であり、安息である』と」。
五九:イエスが言った、「汝らが生きている間に、生ける者を注視しなさい。汝らが死なないように。そして、汝らが彼を見ようとしても、見ることができないであろう」。
六一:イエスが言った、「二人の男が一つ寝台に休んでいるならば、一人が死に、一人が生きるであろう」。サロメが言った、「あなたは誰なのですか。一人から出たような人よ。あなたは私の寝台に上り、そして私の食卓から食べました」。イエスが彼女に言った、「私は同じ者から出た者だ。私には父のものが与えられている」。サロメが彼に言った、「私はあなたの弟子です」。イエスが彼女に言った、「それ故に私はこう言うのだ、『彼が同じである時に、彼は光で満たされるであろう。しかし、彼が分けられている時に、彼は闇で満たされるであろう』と」。
六二:イエスが言った、「私は私の奥義に相応しい人々に私の奥義を言う。汝の右の手がしていることを、汝の左の手に知らせるな」。
六七:イエスが言った、「全てを知っていて、自己に欠けている者は、全てのところに欠けている」。
七二:ある人が彼に言った、「私の兄弟たちに、私の父の持ち物を私と分けるようにと言ってください」。彼がその人に言った、「人よ、誰が私を分配人に立てたのか」。彼は弟子たちに向かって、言った、「私が分配人なのか」。
七四:彼が言った、「主よ、泉の周りには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」。
七五:イエスが言った、「多くの人々が戸口に立っている。しかし、花嫁の部屋に入るであろう者は、単独者だけである」。
七六:イエスが言った、「父の王国は、荷物を持っていて、一つの真珠を見出した商人のようなものだ。この商人は賢い。彼は荷物を売り払い、自分のためにただ一つの真珠を買った。汝らもまた、衣蛾が近寄って食わず、虫が食い尽くさぬ所に、朽ちず尽きることのない宝を求めよ」。
八〇:イエスが言った、「この世を知った者は、身体を見出した。しかし、身体を見出した者に、この世は相応しくない」。
八九:イエスが言った、「何故あなたがたは杯の外側を洗うのか。あなたがたは、内側を造った者が、また外側も造った者でもあることが解らないのか」。
一〇六:イエスが言った、「もしあなたがたが二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子となるだろう。そして、あなたがたが、『山よ、移れ』と言うならば、山は移るだろう」。
一一一:イエスが言った、「天は巻き上げられるだろう。そして地もまた、汝らの前で。そして、生ける者から生きる者は死を見ないであろう」。――イエスは言っていないか、「自己自身を見出す者に、この世は相応しくない」と。
一一二:イエスが言った、「魂に寄りかかっている肉体は災いである。肉体に寄りかかっている魂は災いである」。
一一三:彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に王国は来るのでしょうか」。彼が言った、「それは、待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、或いは、『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の王国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」。
一一四:シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハム(マグダラのマリア)は私たちのもとから去った方が良い。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った、「見よ、私は彼女を天の王国へ導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性(単独者?⇒語録二二・七五)にするならば、天の王国に入るであろうから」。

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