哲学がビジネスに何をもたらすのか

過去に自分がおもしろい記事を書いていたことを思い出しました。
おかしな日本語をちょっと修正したものを、みなさんと再度共有します。

松下電器は哲学というかリベラルアーツの重要性に早くから気が付いていたメーカーです。松下の時代からだから、かなり前から。
その後社名がパナソニックに変わり現在に至る。
最近よく耳にするのは、パナソニックを辞めた従業員が競合他社に移り独創的なアイデアを採用してパナソニックに肉薄しているらしいこと。
ただ、このあたりは具体的にはよく知りません。

先日パナソニックが生成AIを全社に実装したらしく、そういうニュースをネットで見ました。哲学者よりもAIを信じることにしたのでしょう。
この選択自体は企業の従業員のレベルにもよるし、選択について良かったとか悪かったとか、わたしが評価することは出来ない。でも、個人的には残念。何が重要なのか、結構早くに気が付いていた会社なのに。
でも、哲学者がビジネスに役に立たないと気が付いたのなら、それはどこよりも早かったと思う。
パナソニックの話はここまで。以下は一般論。

そもそも論ですが、哲学がアイデアを生むんじゃないですよ。
プラトンを知ってる人材を登用してもアイデアが生まれるわけじゃない。
最近の流れを見ていると、日本企業は根本を誤解しているように思います。
日本企業の人事部は適当すぎるし、わたしは人事部がなぜ採用に強くコミットするのか意味不明です。外資じゃそんなのない。でも日本的な外資だとあるらしい。人事部ってビジネスのことを何も知らない人が多い。人事の専門家とか採用の専門家とか、わたしは正直ピンとこない。

まともな哲学者なら未来を読めると思います。
でも、基本的に哲学やっててビジネスに組するような人は未来を読めてない人かわたしみたいな変な人だと思います。わたしもビジネス側に組していますが、問題を感じても自分の考えと企業の考えが一致しない限り会社で提言なんてしませんよ。だって、哲学の目指す方向は企業の論理とまるで方向が違うから。わたしは、功利主義むき出しのアホな会社はこのまま潰れればいいのにと内心思いながら仕事してます。

哲学者ってヤバいんですよ。
だから、自分の頭で考えることが出来る人って基準で哲学者を採用するとマズいと思います。日本の場合、そもそも論ですが、建前無しで本音を言える人材をまず採用した方がいいと思います。それが哲学者の前提条件です。部活に専念してきて上下関係を叩き込まれてるような人間を採用しちゃだめですよ。日本の教育は哲学者が生まれないようにしてるんですから。そこが重要なんですよ。考えればわかりますよね?
年下や部下の意見を聞こうとしない日本の社会構造が、ビジネスにはそもそも向いてないんです。それを打破するために哲学やってた学生を採用したって全く意味ないです。哲学やってた学生じゃなくて、帰宅部だった学生採用したほうがいいのでは?(笑)

もしみなさんの会社で実施した職域接種で狂ったようにコロナワクチンを拒否した従業員がいたなら、その人は出来る人かもしれないです。職域接種のリストみたらいいんですよ。ワクチンを打った人はこの記事の論点から言えばダメな人材です。自分の健康の事なのに、海外の情報もろくに調べずに、会社ごときの圧力を拒否することもできない。そうじゃない人材が欲しいんですよね?哲学者を採用したいなら、ワクチン打ったかどうか訊いてみたらいいと思います。

でもプライドの高いみなさんはこの指摘を受け入れることが出来ないはずです。まさかワクチンを打ってしまった自分の方がダメ人材だって思いたくはないでしょう。すでに客観的なリストが手元にあるのに、ちゃんと調べ直して優秀な人材だと再評価することなどきっとできない。日本はルサンチマン丸出しのバカが人の上に立ちすぎなんです。わたしはそういう人材を暗記バカと呼んでいます。バカみたいに努力して暗記してきたってバカはバカなんですよ。逆に子どもの時に身に付けておくべきものを全て放棄してきたクルクルパーの可能性すらあります。こういう人材は社会にとってトロイの木馬として機能するんです。そういう人って、シンプルでよいことをわざわざ異常に複雑にしたりして自分にしか理解できないことを増やそうとするんです。

日本社会の欠点は、バカを引き上げてしまって本物とフェイクの区別がつかなくなってることです。西部邁氏やらまともな人はそうなることを危惧してかつてゆとり教育を支持していました。ゆとり教育をすると日本がダメになるって漠然としたことを言う人がいるんですけど違いますよ。フェイクがオリジナルに混ざってしまうことが問題で、それが結局のところ社会をダメにしてしまうんです。それが今です。日本社会はわざわざバカを引き上げて舵取りをさせてる社会で、だから何かにつけ本質が分かってない人が異常に多いのです。だから役に立たない人事部なんていう組織が必要以上に力を持っていたりするんです。

そうですねえ、なんていうか、ニーチェとかモース以降、哲学はアンチ功利主義なんですよ。構造主義以降は完全にアンチ科学主義です。もともとそういうイメージがあるから文学部って採用されなかった時代が長く続いてきて、それは正しいんですよ。文学部はビジネスに基本的に役に立ちません。そりゃあ、中には役に立つ人もいるでしょうけど、それはまた別の話です。

ひとつ前の記事でも書きましたが、思想家のボードリヤールの論点がパクられて映画「マトリックス」になったんですが、彼はそれを嫌っていたんです。勝手に論点をある意味で盗用されて映画にされたから。論点が相対化されることを危惧したんだと思います。でも、映画は大成功した。これをどう見るか、意見は分かれると思いますが、多くの人は物語として捉えてしまってると思います。ちゃんと思想的な裏付けのある現実問題として認識できてないんです。つまり、相対化されてしまったんです。映画を見た人が今後哲学的な論点に触れる機会があっても、なんだか映画のような話だな、って思ってしまうわけです。これが一番まずいわけです。

私はこの映画好きだけど、結局資本主義にパクられたんです。こうやって資本主義はアンチ資本主義の論点をアブゾーブすることで発展してきたんです。だから、企業が生成AIを実装するのは分るんですが、でも、結局のところそれで社会は全体としてダメになりますよ。(ひとつ前の記事でも語ってます。)チョムスキーもめちゃくちゃそれに怒ってるんです。彼の論点もアブゾーブされて、思想が逆に家畜の檻を堅固にすることに使われてしまった。特に今はそうやってきたからこそ本当に人類が袋小路に入ろうとしていて、だからこそ企業は哲学者を求めているのに生成AIには疑問を持たない。これは完全に矛盾してるんです。最近はマーケティングのための哲学なんて言ってる人が沢山出てきていて、完全にクルクルパーの所業なんですけど、それを本人たちは理解できないんです。上で言ったように、社会としてバカを引き上げていて舵取りさせてるから、そのせいでシステムとして重要な論点が相対化されてるんです。バカって本質論が分からないんです。そして、バカの言ってることに素直に飛びついてしまう皆さんはバカ以下の鶏舎のニワトリです。

思想を映画とかアニメにするのは比較的上手いやりかたで、私はこれにはどちらかというと賛成なんですが、問題は、思想の論点が相対化される危険性があるということです。たとえば「風の谷のナウシカ」の論点である環境破壊とか遺伝子組み換えの問題について、この映画を見たってほとんどの人には響かないんです。直感力があれば響くんですが、そういう人は「風の谷のナウシカ」を見なくても問題意識を持ってた人なんです。だから子供の時に見せなくちゃいけないと思います。大人として見る「風の谷のナウシカ」は、むしろ様々な問題について社会が拒否反応を起こさないよう麻痺させる役割さえ担ってると感じます。大人になって「風の谷のナウシカ」を見ると、環境問題を語ることがアニメの中のフィクションを語ることのような陳腐なものに感じられるようになるんです。だから大人になるまでに直感力を身に付けないと、もうダメ人間として生きてゆくしかないんです。

何を言いたいかと言うと、哲学や思想の論点をパクって商業的に形にしても、すぐに消化されてウンコになるだけなんです。血や肉にならない。脂肪にしかならず、そう繰り返すごとに死に近づいていくんです。次はなに?次はなに?と、社会の問題を乗り越えようとする論点が次々に功利主義に吸収されウンコにされて(相対化されて)社会はどんどんダメになります。考えればわかりますよね?だからまともな哲学者ならまともにビジネスに組することはないんです。私の言ってることわかります?考えたらわかりますよね?
じゃあ、なんでカネ、カネ言ってるんですか?

具体的なことを書きすぎるとパクる人がでてくるので極論のような話になってますが、あのですね、こんな世の中もう終わりなんです。
哲学じゃないんですよ。哲学者じゃないんです。その素質をどれだけ養えているか、なんです。だから、やたらと哲学的な用語ばかり振り回してもっともらしいこと言ってもダメなんです。もう見えないんですよ。そういう人も、どこかからアイデアをパクって来てたりするんです。今の時代、もうパクリばかり。誰かの本を紹介して講釈してる人ばかりでしょう?うんざりです。誰かの知識で語ってるだけなんです。でも、そうなるんですよ。パクリ社会だからです。社会として生成AIの時代だからです。そうなるんですよ。オリジナリティがもう急速に社会から失われ始めてる。オリジナルとフェイクが混在して、もう見分けがつかなくなってる。それが今です。あなたの会社が哲学者を採用してもほとんどがパクリ馬鹿の可能性があるんです。パクリしかできない暗記バカです。それなら生成AIを採用した方がいいんです。でもそうするとシステマティックにパクリのスピードを競う社会になって自滅が加速する。仮にまともな哲学者を採用しても、上で言ったようにビジネスと哲学の目指す方向は正反対です。

上手く仕組みづくりをすればいい、ってあなたは言うかもしれません。でも、もう遅いんです。日本人ってアフリカ人よりもバカなんですよ。
8割も毒のワクチン打ってしまうようなクソバカ民族がシステムに逆らえるわけないでしょう?アフリカ人よりもバカと言われて、素直にその通りだ!と思える人がどれくらいいるでしょう。わたしこれを悪口で言ってるんじゃないです。真剣に深刻に考えてるんです。進歩観念に完全に囚われてしまってもう引き返せないところまで来たんです。だからダメなんです。日本は終わりです。そして、システムとしてこういう流れの中に組み込まれてしまった人類は終わりです。もう、人類は終わるんです。

わたしはこういう記事を書いてるけど内心もう意味が無いと思ってます。アホな哲学者がこいついいこと書いてるなと思ってパクって本にしたり有料記事にしたりするだけなんです。実際に頻繁に盗用されるんです。このnoteというプラットフォームも論点を相対化するシステムとして機能しているわけです。哲学的論点がシステムの中で相対化される流れはもう止められないんです。進歩観念に囚われたシステムの根源であるルサンチマンって去勢しないかぎりもう取り除けないんですよ。なので、システムの宿命として人類は終わります。それが今本当に加速してる。だから本物の哲学者はみなギャーギャー今の流れに対し文句を言ってる。もう無理だと思いながらみな声をあげているからわたしも文句を言わせてもらってる。そしてそういう文句(論点)をみなさん(ビジネス側)がまた取り込んでしまう。これの繰り返しなんです。その繰り返しをシステムの宿命としてもう断ち切れないんです。

わたしがこんなこと言ってもアホなみなさんにはもう理解できないでしょう。みなさんはアホです。そんなアホに使われるような哲学者は中途半端な哲学者で、きれいごとを言って金もうけしてるだけです。そういう人は何も理解できてないし、人類にとってまるで役に立たない哲学者です。そういう哲学者はビジネスに組して企業の便所掃除でもしてたらいいと思います。

おわり