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元気ないなった

 生理直前なので心身の不調が強いということにする。疲れてるわけじゃないけど、元気ないなったので、ゆうべサボった洗い物と、洗濯をムリヤリ済ませて、あとは動画見たり本読んだり、ねむくなったら寝るなどしていた。こんなにだらしない生活ひさびさ…早朝のやる気はどこへやら。

 さて、先日読み途中になっていた岡田尊司先生の「社交不安障害」を読了した。
 もしかして、ASDなのかも?そうでなければ尋常でないコミュ障だったことに理由がつかない…と、おびえながら読んだのだが、ガッツリ当てはまったのはやっぱり愛着障害だった。
 12年前に「母という病」といういわゆる「毒親」についての本を岡田先生は出版されており、当時20歳の私は苦しさの正体がわかってホッとしたものだった。
 現在32歳、2年前に地元を飛び出して勢いのままに始めた都会でのひとり暮らしによって、自活する力は否応なしに身についた。
 けれどひとつ満たされればもっと満たされたくなるのが人間である。

 若かった母親からひどいしつけをされても、幼稚園や小学校のころの私には逃げ場がなかった。子どものころは毎日怒られた。ほめられた記憶が本当に一切ない。
 中学生くらいになると分別がついてくるので、さすがに怒鳴り散らされるようなことはなくなった。感情的に怒鳴りつけられてばかりで、自分の意見を言っただけではねつけられ、火に油を注ぐのは目に見えていたので、本来であれば自我の形成に勤しむべきこの時期を、私は「親を怒らせないこと」に重点を置いて過ごすこととなった。

 物心ついたころから劣等感が本当に強い子どもだったから、徹底的に苦手分野は避けて通ってきた。しつけによって悪化した部分もあるだろうが、これは生来持っていた気質によるものが大きいと考えられる。

 中学生になってから勉強を頑張るようになったのは、将来のためだとか、そういうことよりも、今思えば「これすらできない自分に価値はない」という無意識レベルでのプレッシャーがあったからかもしれない。
 授業をちゃんと聞いて、宿題を提出し、いい点を取るために試験前に勉強するだけで良い成績は維持できた。四六時中張り詰めて頑張っていたわけではない。同級生の2/3がまともに勉強をしていなかったのが不思議でならなかった。やればできることをやらないで平気でいられる神経が私にはまったく理解できなかった。
 もしかしたら、私にとって唯一できた自己肯定感を高めることが「勉強を頑張ること」だったのかもしれない。
 実際このころが人生のピークだったと今でも思っているし、大人になってから「楽しいな」と思えた時期はぜんぶ、「中学生のころみたいに元気に動ける」実感を伴うものだった。(なお大体躁状態である)
 つまり私の人生はずっと惰性で続いているということになる。

 抑うつが始まったのが高校に上がってからで、原因は大きくふたつあった。ひとつは同級生と上手くやれない自分が嫌いでたまらなかったこと。もうひとつは苦手な科目を死ぬほど勉強させられたこと。
 軍隊にでも入れられたのかと思ったし、みんな洗脳されていた。キチガイの学年主任によって私たちは特定の一科目のみを特化してやらされていた。
 そんなふうに締め付けを厳しくされたら、それだけで手一杯になってしまって、他の科目の勉強にまで手が回るはずもない。
 私はみるみる学習意欲が萎えていくのを感じた。しかし入学してしまった以上は引き返せない。もはや何のために勉強しているのかわからなかった。
 やる気はとっくに失われていた。気力もなかった。ただ義務感によってかろうじて意識を保っていた。高校3年間に楽しかった思い出はない。
 悲惨なオチがある。我々が学ばされた一科目。やらされた時間が一番多いのだから、それにより点数を稼いでいる子たちが圧倒的に多かった。当然だ。むしろそれ以外が弱いのだから、そこで稼ぐしかないのだ。
 迎えた旧センター試験、その科目だけが極端に難化していた。あてにしていた科目でまったく点が取れなかったのだ。
 結果として、志望校のランクを下げたり、浪人したり、望まぬ進路に切り替えざるを得ない子たちが続出した。
 今でも信じられない。こんな残酷なことがあるだろうか?私たちはわけもわからぬままに学校の方針に従わされ、けれど必死に頑張ってきた。だが現実はそれを上回る残酷さで18歳の心に傷を残していった。
 何のために頑張ったのだろうという果てしない徒労感。ひとつの科目を突き詰めて頑張ったところで、それがダメなら全部ダメ、というアンバランスな勉強の仕方は間違っていたのだ。
 教師がそれを先導したという事実が私には大人になればなるほど信じがたい。死んで詫びてほしいものだ。もっともコイツの命ひとつで進路変更を余儀なくされた生徒の人生が変わるわけでもなんでもないのだが。みんなが今幸せであることを願う。

 私は3年生の段階でその科目を頑張ることに嫌気が差し、学年主任が転勤でいなくなったのをいいことに反動でまったくやらなくなった。それゆえにハナから点数取れることを期待せずに試験に臨んだのだが、そんな私でもびっくりするほどの難化具合であった。血の気が引いた。問題文の意味がわからないのだ。勉強をしていたからといって歯が立つような類のものではないことは、一目で見てとれた。
 つまり、3年生になっても頑張り続けた子たちほど受けるダメージが大きかったことになる。これを皮肉と言わずして何を皮肉と言おう。

 どこでもいいから国立大でとにかく実家を出られればよかった私は偏差値55程度の東北地方にある大学の二次試験を受け見事合格するも、親の失業によりあえなく進学チャレンジ失敗する。(再放送)
 まさかこれが今この年になってもこんなに尾を引くとは思わなかった。それだけショックだったのもあるし、年をとってからわかってしまった「10代後半〜20代の若いうちしかできない経験がある」という事実がより一層私の心に暗い影を落とすのだろう。
 また進学を諦めたことで、同級生より4年も早く、まともな就活など一切せず、覚悟もないままに非正規雇用のフルタイムで就労を開始してしまったことも、今思えば私にとっては悪手でしかなかった。
 レールに乗って、就活をし、大学を出て、正社員として就職するということは、自分自身が幸せに生きるために必要なことだったのだと果てしなく後悔している。

 もうとにかく心の底から他人と交わることが苦痛なのである。これはもうどうしようもなかった。物心ついたときからムリなものはムリだった。働くということはすなわち他人と関わるということ。「イヤなことをしに行く」という意識が抜けないままに私は若く貴重な時間のすべてを何にもならない労働とオタ活に費やすこととなる。

 で、今になってようやく失われた時を取り戻そうとしてるってワケ。10年遅いのよ、本当に。10年どころじゃなく遅い。
 スポンジのようにものすごい吸収速度でいろんなことを実地で学ぶのは楽しいのだけど、同時に大きな苦痛も伴う。
 特に対人テクニックは陽キャには絶対敵わないし、苦手分野なのだからこれこそ学生時代からやっとくべきだったと本当に後悔している(何回後悔すんねん)。
 ピュアなのが「かわちぃね♡」なのはせいぜい20代前半までだっつってんだろうがよ〜ほとほとイヤになるわ、32のBBAが男に不慣れなのはダサすぎる。
 頂き女子り○ちゃんに騙された男側に感情移入してるようではダメなのだ(ハム太郎)。むしろ俺がりりちゃんになるくらいじゃないと。もう若くないけど。

 書いてるうちに元気なってきた。やり尽くしてから死んだって遅くねーよ。いつも以上に散漫でぐだぐだな記事を最後まで読んでくださってありがとうございました。

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