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自己紹介2(防衛省退職まで)

 卒業した大学が防衛医科大学校ということから、卒業後は医師、特に皮膚科医としてのキャリアを積むのと並行して、自衛隊の様々な活動や業務にも従事しました。

 皮膚科医としてのキャリアという意味では大学院での基礎研究がとても心に残っています。未知のことに仮説を立てて実験で証明するという過程で、実験は幾度となくうまくいかないこともありましたが、その都度今は亡くなられた指導教授と1対1で夜遅くまでディスカッションしたのが、振り返ると本当に良い思い出ですし贅沢な時間でした。そして大学院在籍中に米国UCデービス校に留学し研究を行ったのもよい思い出ですし、子供を連れて家族で海外で過ごすのも大変でしたが良い経験でした。

 一方で自衛官としての業務としては、当院のサイトに書いてあるように、砕氷艦しらせの医務長として第54次南極観測協力行動に従事したり、パシフィクパートナーシップというアジア諸国で医療行為を行う活動にも参加し、米軍の軍医を中心に各国の軍医たちとともに医療行為をするなか、私は現地で皮膚科診療も行ったりしました。
 これ以外にも、テロ対策特別措置法に基づく自衛隊インド洋派遣にも従事し中東にも派遣されましたし、市ヶ谷の防衛省本省で行政職にも従事しました。
 防衛省で様々な業務に従事した中でも、実は一番心に残っているのはこの防衛省での行政職についた経験です。私は海上自衛隊に所属していたので、防衛省全体の方針に従って海上自衛隊の衛生に関する法律を制定したり、健康管理に関する規則の改正をしたりしました。更には人事に関する業務や予算に関する業務にも関わりました。全く診療とは関係ない業務でしたが、厚生労働省から出向して防衛省で勤務する医系技官の方や自衛隊の他の部署の方々と絡みながら仕事をすすめていき、ボトムアップで根回しなど行いながら仕事をすすめました。日本の行政、官僚組織がどのような仕組みで成り立っているのかが実体験を経てよくわかりました。日本の報道では何かと官僚を悪者にするような内容が多いと思いますが、内情はとても優秀な人材が自己犠牲の精神で働いているという実態もよくわかりましたし、今でも頭が下がる思いです。

 転勤や派遣で家族のことは二の次となり、娘が誕生したときはインド洋派遣で洋上にいましたし、東日本大震災がおきたときは防衛省本省にいてしばらく自宅に帰ることもできませんでした。様々な経験をさせてもらったのはありがたいと思っていましたが、一方でどこかに腰を落ち着けて診療を行いたいなという思いも芽生えていました。そして最後に派遣されたのが砕氷船しらせでの勤務でした。今でもその瞬間を思い出せますが、南極で氷上に降り立つことができたとき、少し仲間から距離をとり、周囲のどこを見渡しても氷上の真っ白で何の音もしない静かな環境の中で、思い切り腹の底から大声をあげて叫びました。そして次の瞬間、ひとこと思いました、”もうやりきったな”と。
 その時から、国のためという大きな命題のために働くのも良いけれど、帰国したらどこかでじっくりと腰を落ち着けて地域の人達のために医療を行おうと決意し防衛省を退職しました。

続きは次回で


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