課題

「文(ふみ)ってさ、友達いないよね」

昔、まだ学生時代だった頃、先輩達の話の中で言われた言葉。
確かあれですよ。
彼女らの楽しみに水を差すような事を、何かしらしちゃったんです。
ルール厳守、とまではいかなかったけど、これは(先生に)通報してええやろ…と思って、やっちゃったんですよね。
どちらかといえばそらールール守らないあっちが悪い。
でも相手からすれば、何なのこの後輩、頭が高いんじゃね?という。
相手は自己反省より他責を選んだ、でも私は間違って無いだろ?と言えなくもないんですが。
今でも時々もうちょい何かしら、相手方にそこまで悪感情持たれたり悪口・陰口の類というものを吐かせない、お互い嫌な気分にならない方法無かったかなぁ…なんて。
結局は言うんだなお前。っていう。

聞こえる言葉、目に見える文章、それらって琴線に引っ掛かるから気になる。
自分が潜在的に気にしてるから、それを見聞きして感情が荒ぶるんですよね。
その心の動きは知っているんです。
だから、気にしなければ気にならないのもわかっているし、濾過出来ていたならもう気にならないのも理解しているんですよ。

例えば、子どもを授かれない時に、こんな人が簡単に子どもを授かれるなんて。みたいな。
自分と同じ事で悩んでいるのに、あちらは色んな人がよしよししていて、こっちは自分で何とか噛み砕いて嚥下しなきゃいけない、とか。
星回りだったり役割は人それぞれで、丁度自分が孤独の時期に差し掛かっていて自分自身が一人でこなさなきゃいけない課題だと、他人羨んだところで意味は無いんですよね。
でも私はついつい羨んでしまう。
昔はなんであちらにはあってこちらにはないのかとすごく気にしてたし、それこそ友達がいないだとか、好かれていないだとか。
そんな事どうでも良いと思っている自分もいつつ、やっぱりどこかしらでは負い目だったなぁと。

今も「友達いないなお前」って言われたら号泣するか?と聞かれれば、多分号泣しないし、認めると思う。
一時的にでも縁があったなら、あ、どうも。ぐらいが一番楽だな、と最近は思っている。
あと友達がいる・いないというより、私が素敵だなと思う人が時々私にも話しかけてくれるってだけでありがたい。
色んな能力やら才能があるんだなぁ、好みがどこか似てるから見ていて楽しいなぁ、そんな人達とたまに話す事が出来るのが嬉しい。
勿論これはちょっと私には合わないな…と思ったらフォロー外したりはするけど、接点無くなるだけでその人の今後の人生とかに何かしら感情を持つ訳でもない。
少し仲良くなったところで、曲げられない、譲歩出来ない意見のぶつかり合いについては、そこを起点に瓦解しても良いかと思うし、相手の居場所を奪ったりするより自分が遠退けば良いというところもある。
…というかそこまでの突き通したい意見というより、私にとっては心配だったんだけどな。そこは多分勘違いされてるけど、言ったところで、うん、だから何?って言われちゃいそう。

今のところ、「他人に優しくいられる為に、私はどうすれば良い?」が私の課題であって、誰かといがみ合うのはそのテーマから反する。
皆それぞれ生きるテーマが違うのだから、色んな人やその意見を少しずつ噛み砕いていくのが自分にとって無理のない方法だと思っている。
あまりにも抱えきれないくらいのものは、一度それを得たところから離れ、ゆっくり自己分析含め解体しつつかなぁと。

今のところ列挙されているのは
・どうとも出来ないと思われている相手に、黙って頭低くして通り過ぎるのを待つか、キチンと向かい合おうとした方が良いかどうか
(私は仲が少しでも良かった人相手なら、対峙した上で無理なら離れるを選びたい、悪口・陰口を叩いたり不満に思いながら表面上仲良くというのは難しい)
・それは明らかに盲目的だという反対意見に、自身の意見を曲げ迎合したと見せかけるかどうか
(どうでも良いものなら問題は無い。責任を伴うものなら迎合は難しい)
・周りの意見とは明らかに違う意見を持った自分を、どう処理すべきか
(聞かれてもない反対意見は言わなくて良い、言ったら場が乱れる。と叱られるのは分かる。けれど果たしてそれで良いのだろうか…と居心地悪く感じてしまう)
・それらの反対意見などを、果たして私は見続けなければいけないのか、目を逸らしても良いのか
(色んな意見を知らないと偏る、けれど盲目的で芯の通ってない意見や、倫理に悖るけど人間としては持ってしまう意見も目を逸らさず見続ける必要があるかどうか)

因みに、他人に優しくの定義は、相手に負の感情(殺意・怨恨・嫌悪等々)を持たない事であって、何をされても許すとかいった慈愛の域まではさすがに無理です…。