荘子は命名を重視したか?
荘子は確かに「名は実の賓」 ということを言いましたが、これもまた実際に読んでみると、姓名判断書の序文に引用するには、はなはだ不適切なものであることがわかります。
『荘子』 の逍遥遊篇にでてくる「名は実の賓」 の内容は、およそ次のようなものです。[*1-5]
●「名は実の賓」の本来の意味は?
●「名は実の賓」は名づけと無関係
ここに登場する許由という人物は、実在したかどうかは不明ですが、古代の伝説的な隠者です。
尭帝が許由に譲位を申し出たことは二度ありましたが、二度目のとき、許由はこれを聞いた自分の耳さえ汚らわしいと思って、近くの潁水川で耳を洗ったそうです。さすがに、聖天子といわれるほどの尭帝が譲位を申し出るだけのことはあります。
ところで、そこをたまたま巣父という人物が牛を連れて通りかかったのですが、こちらは許由の上を行く聖者だったとみえます。そんな汚らわしい水は牛に飲ませられないと言って、牛を上流のほうに追って行ってしまったというのです。[*5]
このように中国では、古代から栄達を求めず、俗世から離れて、その身心を潔白に保つ隠者が尊ばれていました。解説によると、この寓話が意味するところは、名誉には実質の徳行が備わっていなければならないということで、人間があまりに名誉や物質的なものにこだわり過ぎることを皮肉った文章だそうです。
こちらも、孔子の「必ずや名を正さんか」 と同じく、子どもの名づけにはまったく関係がありません。それどころか、内容的には「名は実の賓」 を名づけの重要さと関連づけること自体がナンセンスに思えます。
いったいどういうわけで、この句が姓名判断書の序文に繰り返し引用されたのでしょうか。不思議としか言いようがありませんね。
「必ずや名を正さんか」 も「名は実の賓」 も、子どもの名づけにはまったく関係ないことがわかりました。ただ、これらを孔子や荘子の思想全体から哲学的に解釈すれば、若干の関係をこじつけられなくもないようです。
●名実論とは?
戦国時代には、社会秩序の混乱にともない、言語(ことば) までも混乱していました。有力貴族が力ずくで君子から実権を奪い、諸侯は周王朝の天子を意味する王号まで勝手に名乗ったそうです。これでは「王」 が天下全体の支配者なのか、一国の君主にすぎないのかも区別できなくなります。
こうした状況を背景に、諸子百家の間では「名実論」 なるものがブームになるのですが、その走りが孔子の「必ずや名を正さんか」 だったそうです。
名実論の「名」 はことば(ものの名称)、「実」 はことばの意味(指し示す対象、概念、本質)です。彼ら諸子百家は、ことばとその指示対象との関係を明らかにし、「名を正す」 ことによって社会秩序の回復を狙ったのでした。
やがて、彼らの中から、日常性を飛び越えて、難解なことを言い出すものまで現れます。たとえば、ある者は、「堅くて白い石」 の「堅さ」 や「白さ」 は実在する、実体がある、などというのです。そして、ものの名称はその実体を正しく言い表しているべきだとも考えました。[*6]
一方、実体と緊密に結びついた名(名称)、まさにこの名でなければならないという、そんな特別な名はそもそも存在しないとする者や、存在するとしても、そのことをあまり重視しない者もいました。当時はこうしたさまざまな主張が入り乱れていたそうです。
孔子や荘子の思想もこのような文脈で捉えることができるようです。[*7-8]
●姓名判断書に孔子や荘子の引用は適さない
そこで、「名」 に人名も含まれると拡大解釈してみると、「必ずや名を正さんか」 はどうなるか? 孔子は名と実の一致を説くのですから、「子ども(実)にぴったり対応する名前がどこかに必ずある」、「子どもの気質を正しく表現する名前をつけるべきだ」 となるでしょう。
「実」 である子どもが先に存在するわけで、その逆ではありません。すると、子どもの気質を無視して、姓名判断で吉画数の名前をつけるなどというのは、かえって孔子の教えに反することになります。
一方の荘子は、名称などというものは社会的な約束ごとでしかない、と考えていたそうです。どうも孔子の思想とは真っ向から対立するようです。
これからすると、荘子は「子ども(実) にぴったり対応する名前などというものは、そもそも存在しない」、「子どもの名前は単に個人を特定するだけのものだから、なんだっていい」 といっているように見えます。
どちらにしても、姓名判断書の序文には孔子や荘子を引用しないほうが無難のようです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?