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人はなぜ物語を求めるのか

いきなりですが、問題です。

ある国の、ある村には、伝統的な雨乞いの踊りがある。それをやると100パーセント雨が降る、と村人が言う。さて、それは一体どんな踊りか?

これは『人はなぜ物語を求めるのか』の冒頭で問われるなぞなぞです。いかがでしょうか。答えがパッと出てこなくても大丈夫、今からその理由を紐解いていきます。正解は最後に記載しますので、ネタバレが嫌であれば、そこだけ読まずページを閉じて書店へ直行してください。

人の理解のメカニズム

先般、高齢者の運転誤りにより、母親と小さな子どもが亡くなるという痛ましい事件が起きました。ドライバーは逮捕されず、本人の経歴を合わせて、「上級国民だから逮捕されない」という言説がまことしやかに噂されています。真偽はともかく、これは非常に人間らしい論筋の立て方だと思いました。

そもそも「逮捕」という行為は事件捜査や裁判の必須条項ではありません。書類送検や在宅起訴など、身柄を拘束されないケースはいくらでもあります。僕は警察関係者ではないので詳細を存じ上げませんが、被疑者に証拠隠滅の恐れや、罪に苛まれて自殺する可能性がある場合に、逮捕という選択が取られると想像します。今回の事件が逮捕に該当しない理由は定かではありません。ただ、ここで論じたいのはそこではありません。

「逮捕されない」という事実が明らかになった時、人は「なぜ?」と考えます。当然のことです。注目したいのは、その理由がもっともらしい確定的な言説に置き換わっていく過程です。人は無意識のうちに、前後の文脈に勝手に因果関係を結び付けて理解する性質があります。これを「前後即因果の誤謬」といいます。ここでは「不逮捕」と「被疑者の経歴」という前後に、因果関係を見出しているのです。

往々にして人の理解とは、ストーリーの創作なのです。一度「なぜ?」と問い始めると、その問いが解消されるような情報解釈が始まります。「理解する」ということは、事実や真偽を判定することではなく、あなたの手持ちの一般論に合致することなのです。

帰納と演繹が歪ませる認知

もう少し、人の理解を紐解いていきましょう。本書ではこんな例が出てきます。

知り合った個別の大阪人がたまたま二人続けて「せっかちで納豆嫌い」だったせいで、「大阪人一般がせっかちで納豆嫌い」という一般論を導き出してしまう東日本育ちの人

この「せっかちで納豆嫌い」という二人の大阪人の例を背後の880万人の大阪府民に一般化すること、個別事例を一般論に収斂する行為を「帰納」といいます。さらに、一般化された言説を「そうやな、だから僕もせっかちなんや」と自分自身に当て嵌めること、一般論を個別事例に拡張する行為を「演繹」といいます。

僕たちはこの帰納と演繹を無意識のうちに使い、経験を物語に変えがちです。たとえば、何かうまくいかないことがあった時、「自分はいつもうまくいかない」と帰納を使って一般化し、「次もうまくいかなかったらどうしよう」と演繹を使って未来の不安を煽ります。端的に言えばこれは間違いで、ただの認知の歪みです。ところが人は前後即因果の誤謬により、真偽不明なストーリーを作って理解してしまいます。本書ではこのように表現されています。

ほんとうのことを知りたいというよりも、未知のできごと(異なるもの)をすでに知っているパターンの形に押しこめて消化(同化)してしまいたい、そういう感情です。

つまり、理解というプロセスではたらいている機能は知性ではなく、感情なのです。
誤解しないでほしいのは、帰納と演繹それ自体は悪いものではなく、思考の手法です。上手に使えば強い味方になってくれますが、困ったことに人間は無自覚にこれらを使い、認知を歪ませるケースがあるということです。

因果応報の功罪

心理学者のフロイトは精神疾患を抱えた患者に対し、「自分の過去を話させる」という治療を行っていました。精神疾患に至った辛い経緯を思い出させる荒療治と誤解されがちですが、真意は逆なのです。フロイトによれば、人が自己開示をする際には、事実を思い出しているわけではなく、その都度、現在と辻褄が合うように物語を作っていると言うのです。

また、哲学者のニーチェは「人間の問題は苦悩すること自体ではなく、苦悩する理由を探す必要があること」と説きます。僕たちは「理由が分からない」ことに耐えられず、そのままにしておくのが苦しいのです。時に無理筋な陰謀論や都市伝説にハマっていくのは、その人が愚かだからではなく、人間の習性なのです。「理解」という安心感の前では、多少強引な論理も進んで受け入れてしまうものなのです。

この最たる例が「因果応報」という一般論です。良い行いをすれば良いことが返ってきて、悪い行いをすれば悪いことが返ってくる。僕たちの基本的な価値観にプリセットされている観念です。これには功罪あり、善行にインセンティブがはたらくので、秩序の維持にはとても有用な考えと言えます。反面、何か悪いことがあった時、期待した結果が得られなかった時、「自分に非があったのではないか」と過度に理由を探してしまうことがあります。

また、何か凶悪な事件が起こった際、「被害者にも落ち度があったのではないか」という言説も散見されます。これは「公正世界仮説」という心理で、自分の身に起きて欲しくない災いを見聞きした時、そこには被害に遭う理由があり、自分には当てはまらないと思いたいのです。当然、これはただの認知バイアスで、明確な間違いです。実際のところ、因果応報に統計的な根拠はありません。プロテスタントの予定説では、「救済に日頃の行いなど関係ない」と因果応報は否定されていますね。

物語に流されない知的態度とは

僕たちは無意識のうちに身の回りの様々な現象を結び付け、物語を創出し、それをもって理解してしまう生き物です。それは時に自らを苦しめる結果にもなり、過剰な自責を生む引き金になったりします。
だから、前述のフロイトは患者に話させたのです。思う存分、自分の過去を物語として創作させ、最初に「理解できない」ストレスを取り除きます。次に、それが物語であることを説き、全ては理由があって起きているのではなく、起きるようにしか起きない、と気付かせる。

これこそ物語に流されない知的態度ではないでしょうか。何事にも因果がある訳ではなく、ほとんどの事象は断片が浮遊しているだけ。因果は観察者の頭の中にしかないのです。天罰もご利益も、占いが当たるのも、それはその人の頭の中で物語が作られているからなのです。

無自覚なストーリー作りから解放されるには、まずもって自分がそういうバイアスを持っていることを自覚することです。特に、僕たちは一般論への耐性が弱いように思います。一般化された事象は自分の身にも降りかかるのではないかと疑心暗鬼になるのです。

しかし本書でも指摘がありましたが、因果応報という一般論の傍ら、実は「正直者はバカを見る」という一般論も存在します。両者は対立する論説ですが、僕たちはその両方に納得性を持っています。このように、物語の骨格を形成する一般論は、結局どちらにでも取れる体裁を取っているのです。僕たちは物語に沿うような一般論をチョイスしているに過ぎません

出来事が君の欲するように起ることを望まぬがいい。むしろ起るように起るを欲し給え。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。最後に、冒頭のなぞなぞの正解を発表しましょう。ここまで読んで、もうお分かりの方もいらっしゃるでしょう。

正解は、雨が降るまで踊り続けた、です。
「100パーセント雨が降る」というのは村人の言葉であり、彼らは「踊る」と「雨が降る」の間に前後即因果の誤謬で、ストーリーを作ってしまったのです。そして「雨が降らないのは、踊りが足りないからだ」という公正世界仮説に苛まれ踊り続ける姿も、僕たちの周りの至る場所で見られる人間の物語ですね。

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