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日本は格差社会というよりも

いつの頃からか、日本社会は「格差社会」という形容が定着しています。格差とは、主として経済的体力の多寡で表出する生活水準の差異であり、高度成長期を経た時点で広く国民が実感していた「総中流社会」の対象表現としても用いられたりします。
格差は年収、雇用形態、教育に至るまで、社会生活で出くわすあらゆる局面で顔を覗かせます。また、それらは本人の問題に留まらず、世代を越えて固定化されていくような例も散見されます。

似た言葉で「身分社会」「階級社会」というものがあります。厳密な定義は社会学を参照するべきですが、大雑把に表現すると、身分社会とは支配秩序のために構成されている士農工商のような固定的な編成、階級社会とは保有資産によるピラミッド階層、というようなニュアンスです。

格差が存在するのであれば是正されて然るべきです。身分制度も階級制度も、法的な是正や、時には革命のような手段でガラガラポンが為されているのは歴史が示しています。
しかし、ロストジェネレーションやワーキングプアといった格差の顕在化を嫌というほど認識させられる一方、どう是正するかという議論の機運は十分に高まっていないように思えます。あまり主語を大きくしたくないので、あくまで「僕は」という注釈付きで。

格差から変容する日本社会

格差の存在を認識しつつ、自分ごとの問題として思考していないのではないか。格差が固定化していくのを諦念にも似た気持ちで立ち尽くしている。そんな状態のように思います。
それどころか、生活保護受給者に対する心ない言葉すら聞こえてきたりします。一部の不正受給の事例を安易に一般化し、「自己責任」の名の下に本人の努力の及ばない境遇さえも甘受すべきという暴論は合理性を欠き、格差是正とは程遠い言説です。
格差社会なのに、その是正に主体的になれない状況とは何なのだろうか。そんなことを考えている時、こんな言葉に出会いました。

日本社会を形容する言葉は、「格差」から「分断」へとシフトしつつある。

『<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』という本の終盤に現れたこの一文に、僕はハッとさせられました。
あの人はかわいそう、この人は恵まれている。そう思う時、僕はあの人もこの人も、川を隔てた向こう岸に見ていたのです。対岸で起きていることに興味を持っても、自分の問題として捉えていない。そんな気分で格差社会という「風景」を見ていたような気がします。

総体の認識に隠れた内部の多様性

この本は、いわゆる「ヤンキー」というカテゴリーに区分される子どもたちを対象に、インタビューを基軸に彼らの生活実態を追跡調査したものです。ヤンキーに対するイメージはどのようなものでしょうか?腕っぷしが強く、言葉使いが乱暴で、髪を染めて、バイクを乗り回し、煙草をふかし…などの人物像でしょうか。
ただし、当然ながらヤンキーという外形的特徴が共通していても、各々の背景は異なります。僕自身はヤンキーではなかったのですが、通っていた公立中学校はまあまあ荒れていて、同じ団地に住む友人たちが「ヤンキー化」していく過程を見てきました。お兄ちゃんの影響、友達付き合いの影響、両親や先生という大人への不信、勉強嫌い、理由は様々かつ複合的で、誰一人として全く同じ経過を辿っているわけではありません。

本書では「ヤンキー」と括られる人々の内部の多様性に目を向ける重要性を訴えています。社会空間、学校空間、メディア・ストリート空間という3つの圧力場において、各々が受ける力の質・量が異なり、それがヤンキー内部の多様性を生み、ひいてはその後の人生の分岐に繋がっていく。その詳細がヤンキーたち本人の生々しい言葉から導き出されていきます。僕はヤンキーという「総体」を知っていましたが、ヤンキーという「人」のことなど大して知らなかったのです。

加えて、次のような重要な示唆を与えています。

暴走族が話題になるとその担い手として描かれ、学歴社会が問題視されれば「落ちこぼれ」と論じられ、「子ども・若者の貧困」が社会問題となればその渦中を生きる存在として光が当てあれる。その意味でいえば、「ヤンキー」とは、その言葉が生み出された当初から、私たちの社会を映す鏡のような存在だったといえるだろう。

ヤンキーは、社会という巨大な水面の下に潜む様々な問題の表出ではないか。にもかかわらず、それをどこか他人事のように観察し、個々の事情や多様性に目を向けず、ヤンキーという総体の認識で思考を閉じてしまう。これは冒頭の格差社会と全く同じ現象のように思います。
分断社会とは、無意識のうちに社会を「こちら側」と「あちら側」に区分してしまうがゆえに、「あちら側」で起きていることを自分の問題として考えられなくなった帰結ではないでしょうか。簡潔に言ってしまえば、「もしも自分の人生があちら側だったら…」と発想する力の欠如、放棄ということです。
何らかの問題に対し、内部の多様性に目を向けず総体としての理解に留まる時、あなたは社会を分断して捉えています。そして、思考の癖はあらゆる事象で再現されます。

多様性の認識から考えること

本書を通じ、恵まれない家庭環境をひとつの起因としてヤンキーとなった子たちが、同じような学生生活を送ったにも関わらず、その後の人生に大きな差異を生じることが分かります。恵まれない家庭環境と人格形成を安易に結び付けヤンキーとカテゴライズしてしまうと、差異を生む多様な影響因子を見落としてしまいます。僕たちは複数かつ複雑な要因を考えることができず、容易に分かりやすいストーリーに飛び付き、それで理解したつもりになってしまいがちです。この理解の誤謬が、現実と乖離したありもしない世界の認知に繋がり、状況をますます悪化させたりします。

ヤンチャな子という比較的身近なモチーフで、実地調査に基づく多様な人生の輪郭が写し出されています。先行研究や他国との文化比較も興味を刺激してくれますし、単純にドキュメンタリーとしても読み応えのある内容です。

彼ら一人ひとりの人生の困難は、そのままあなたの問題であると頭の片隅に置きながらページをめくってみて下さい。

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