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都市になるショッピングモール

夏本番を迎え、どこへ出かけるにも暑いですね。家から出るのすら億劫になります。そんな時にはショッピングモールが便利!家から車に乗ってショッピングモールに入れば、外の照り付ける暑さとは無縁の快適な買い物や食事、時間つぶしが楽しめます。

ところが、この便利で快適なショッピングモール、実はこれまでの都市計画の文脈の中ではあまり良い扱いはされておらず、むしろ悪者扱いされてきました。

社会の授業で、スプロールやドーナツ化という言葉を聞いた覚えはありませんか。スプロールは中心地の密度が失われること、ドーナツ化は中心地から郊外へ人口が移転してしまうこと。こうした都市の問題に対し、ショッピングモールは主犯格として目の敵にされてきました。

便利で快適な一方、都市の破壊者の顔も持つ。そんなアンビバレンスな存在として今日までショッピングモールは生きてきたのです。

ところで最近のショッピングモールをみると、その変化に驚かされます。雁行する街路、用途を混在させた店舗構成、効果的に配置された植樹やベンチなど、随所に空間の工夫が盛り込まれています。新しい発見、散歩する楽しみ、ショッピングモールでの体験はまるで都市そのものです。

都市の悪者扱いされてきたショッピングモールですが、今や都市にショッピングモールがあるというより、ショッピングモールが都市そのものになっているようです。

ショッピングモールの変遷を辿ると、都市の問題、都市の構造、都市の未来像が見えてきます。『ショッピングモールから考える』は、思想家の東浩紀さんと写真家の大山顕さんがショッピングモールを基軸に、社会や価値観の変遷を大いに語り合う対談集です。

お二人とも建築や都市工学の専門家ではありませんが、だからこそ新鮮で刺激的な視座が次々と呈されます。前述の「ショッピングモールが都市そのものになっている」というのは本書で為される主題でした。

ショッピングモールにまつわる体験を丁寧に言語化することで、僕たちが普段意識できないレイヤーでの気付きに出会うことができます。日常に新しい視座をもたらす、とても贅沢な知的体験を味わえる1冊です。

ショッピングモールにまつわる都市計画との軋轢

僕たち利用者にとって、ショッピングモールはたいへん便利な施設です。しかし前述のとおり、日本の都市論の文脈の中においては、ショッピングモールは悪者扱いされる存在でした。その理由を探るべく、現在までの都市の成り立ちを紐解いてみましょう。

まずショッピングモールのビジネスモデルは、担保となる土地を見つけては資金を借り入れ、それを元手に次の出店先を買い上げるという、自転車操業にも思えるサイクルです。近年では、店舗のキャッシュフローを担保とした不動産証券化により資金を調達するモデルも見られるようになりましたが、根本は同じです。

このモデルは土地と建物をいかに安く調達するかが勝負です。よって出店先は土地の価格が安い郊外、建物は低コストの鉄骨造・プレハブ施設が合理的です。中心地で鉄筋コンクリート造の重厚な作りで居を構える百貨店建築とは対照的に、ショッピングモールはいかにもローコストな佇まいが特徴ですね。

一方、郊外で乱立したショッピングモールにお客さんを奪われた中心市街地の商店街は衰退し、やがて店も住む人もいなくなり、シャッター通りが形成されていきます。中心市街地は空洞化(スプロール)、都市は郊外へと無秩序に広がっていく(ドーナツ化)、現在の都市の問題の一端が垣間見れます。

行政もこの状況を指を咥えて見ていた訳ではありません。90年代後半には、都市計画法・中心市街地活性化法・大規模小売店舗立地法(まちづくり3法)の改正により、ショッピングモールの郊外出店規制と中心市街地の空洞化対策を講じました。

現在では、原則的にショッピングモールは中心市街地にしか建設できません。規制的手法により商業地と住居を中心地に集約し、適切な密度とサイズの都市を再構成する、コンパクトシティと呼ばれる都市計画の思想です。

頓挫したコンパクトシティ

ここまでは都市計画の教科書どおりの流れです。ところが近年の都市の実態を見ると、どうも頼みの綱のコンパクトシティが疑わしく思えてきます。

きっかけはコンパクトシティの象徴と言われた、青森市の複合ビル・青森アウガの破綻でした。駅前の中心市街地に商業、文化施設を集めた大規模な都市の再編成・中心回帰だったのですが、ほどなくして債務超過に陥り、事業は破綻しました。

一方で、ショッピングモールが中心地に集まってきているかというと、これもまた怪しいものです。

佐賀県上峰町はロードサイド店舗が集積する郊外を中心商店街に指定、福島県は準工業地域にも出店できるよう規制緩和するなど、中心地にモール建設を促すのではなく、候補地を中心地に指定するという、法の思想と真逆の行為さえ散見されます。

コンパクトシティは高密度の都市を形成することで、経済の活性化、インフラ・行政サービスの効率化、住民のコミュニティ再生など、高い理想を掲げていました。

しかし蓋を開けてみると、都心回帰は中心地の地価高騰を招き、商業の事業採算が悪化する他、郊外からの転居の阻害という、負の側面が現れてきました。世界的にも地価高騰で住居を追われるジェントリフィケーションの問題が議論されています。高尚な理想論も、市場経済の前ではうまく機能しないことがあるのです。

このような理想と現実とのギャップは、都市計画論を主導する大学にも問題がありました。アカデミズムの世界には左翼的な思想が残っており、そもそも資本主義に対する嫌悪感が前提としてあるように思います。

郊外のショッピングモールは巨大資本に物を言わせ、安く大量の土地と商品で消費社会を形成する、まさに資本主義の象徴です。ショッピングモールと中心市街地は、そのまま資本と文化の代理戦争のように、不要な対立を煽られてきた感があります。

ショッピングモールと百貨店の違い

ここまで大雑把に都市論におけるショッピングモールの位置づけをまとめてみました。普段、何気なく使っているショッピングモールに、意外なストーリーがあることを感じていただければ十分です。

ショッピングモールは都市との軋轢の中で、どうすれば存在が承認されるか試行錯誤してきたのでしょう。それが近年のモールの中身に表れ始めています。

一般的に、商業施設のテナント配置には「シャワー効果の最大化」という鉄板の掟があります。

シャワー効果とは文字どおり、シャワーのように上階から下階へ買い物動線を導くこと。具体的には、来店の目的になりやすいキラーテナントを上階に設置します。上階でお目当ての買い物を終えてお財布の紐が緩んだお客さんを、下階で「ついで買い」させる手法です。

百貨店を思い浮かべて下さい。飲食店や書店は上階に設置されていませんか?これはシャワー効果を狙った配置です。映画館は高天井、無柱空間という建築構造上の制約から下階に設置しにくく上階に配置されますが、それも結果的にシャワー効果を担っています。このように、商業施設のテナントはたいへん合理的な発想に基づいて配置されます。

百貨店とショッピングモールの大きな違いは、主要動線が垂直方向か水平方向かです。百貨店は床が何層も積層する高層建築が基本で、エレベータやエスカレータが一か所に集約配置され、利用客の動線は上下移動の後に各階へ散らばっていきます。

一方、ショッピングモールは低層建築です。中心の吹き抜けと、その周りに床が配置されるのが特徴です。下りのエスカレータに乗ると下階のフロアが一望できる丘のような作りで、上下よりも水平方向に視線が動く設えとなっています。

このように垂直と水平という動線の違いはありますが、かつてのショッピングモールの店舗の配置はシャワー効果を狙う、いわば百貨店を踏襲する形態でした。

ところが2015年を過ぎたあたりから、様相が一変します。来店の目的にされやすい飲食店や家電量販店が1階に姿を現し始めました。この理由はショッピングモールがシャワー効果という商業のセオリーではなく、都市のセオリーを取り入れ始めたためです。

ショッピングモールは都市そのもの

東京の表参道、大阪の御堂筋、名古屋の栄など、まちを散策しながらお店に入る、僕たちの都市空間でのふるまいは水平動線を基軸にしています。

街路を観察すると、一方で道路空間という「吹き抜け」に接しており、他方で路面店に接続していることが分かります。路面店はカフェやギャラリー、ショップなど用途は様々に混在していますね。

近年のショッピングモールはこうした都市空間の特徴を高度に再現しています。

ショッピングモールの空間体験は水平動線のストリートを歩きながら「どんな店があるんだろう」と見渡し、飲食や雑貨、服など雑多に混合配置された店舗を回る、都市空間のふるまいに近付いてきました。前述のエスカレータの視線も、勾配や起伏のある都市を丘から眺めているような風景と重なります。人工的な植樹やベンチなどの設えも、街路樹や公園を連想させますね。

思えば、僕たちは現実の都市を歩くという体験が日に日に減っている気がしませんか。この炎天下や雨の日に歩く気にはなりませんし、車の往来や放置自転車など街路には意外とストレスが多いものです。

ところが、ショッピングモールが再現する都市には、そうしたストレスはありません。これは非常に重大な示唆を与えています。今や、現実の都市は移動経路に過ぎず、ショッピングモールが僕たちの理想の都市を作り上げている、そんな気がしてきませんか。

実際に、ドバイでは真夏は外出できる環境ではないため、ショッピングモールが人工都市として建設されたという逸話もあるほどです。

面白いことに、ショッピングモールは都市によって様々な特徴があります。ストリートの形態や植樹、テナントに至るまで、風景が画一化した現実の都市よりもショッピングモールの「内装」が多様性に富んで見えるのは皮肉なことですね。

都市との軋轢の末に辿り着いた先が「都市の再現」であり、今や現実の都市をも凌駕する「本物の都市」になってしまいました。

そもそも都市から悪者扱いされても淘汰されなかったのは、ショッピングモールが人々から必要とされていたからに他なりません。人々から必要とされるものを守ると同時に、より良い存在になるよう改善を模索し続ける。ショッピングモールのドラマは僕たちに大切なことを気付かせてくれます。

次代のショッピングモール

ドイツのフランクフルトに、マイツァイルというショッピングモールがあります。写真のとおり、砲弾でも撃ち込まれたかのようなガラスのファサード。しかし中に入ると、さらに度肝を抜かれます。ガラスの穴は龍のような胴体に繋がり、内部を這いずり回り、最後は吹き抜けを貫いて地面に頭を下ろします。

マイツァイルはイタリア人建築家、マッシミリアーノ・フクサスの設計です。おそらく世界で最もインパクトのあるショッピングモールではないでしょうか。4年前に現地を訪れた際、僕は童心に戻って、ガラスの龍を追いかけ続けたのを覚えています。

日本のショッピングモールは経済合理性の観点から、建築は極限までコストダウンが求められます。鉄骨でスパンを飛ばした躯体に、既製品のパネルを貼り付ける、それは百貨店や美術館のような重厚な建築とは異質の、倉庫に近い簡素さです。IKEA、COSTCOに至っては倉庫以外の何物でもありません。

ショッピングモールが内包する合理性、利便性、快適性は短期的には恩恵をもたらしますが、中長期的に人間から想像力を奪います。次第に、経済的収支が合って便利なら何でも良いという投げやりな価値観に僕たちの思考が支配され、待っているのは「貧しさ」です。

資本主義や経済合理性を否定する訳ではありません。人間の進歩、そして自由とは、経済効率に留まらない「豊かさ」「楽しさ」「多様性」といった文化資本から得られるものだと決して忘れてはならないということです。

マイツァイルはショッピングモールであると同時に、豊かな文化資本の役割を担っています。人間の想像の可能性、想像を現実に変える技術、造形に潜む美、それらを経済効率の犠牲にしたくはありません。現代の価値観も便利で快適といった機能的価値から、ガラスの龍が魅せる意味的価値へシフトしているように思います。

都市の再現、本物の都市と進化した歴史を踏まえ、僕は次代のショッピングモールに「都市を超える体験」という文化資本を求めています。現実の都市空間での体験の再現を超え、現実の都市空間で味わえない体験を目指す世界であってほしい。

そして、そこに住まう僕たちも、豊かな空間体験に投資できる、正当なお金を払える人間でありたいと思います。


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