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「何がしたいのか」の見つけ方

今のお仕事で、いまいちモチベーションが上がらなかったりしませんか。あるいは、部下や後輩の指導・育成がうまくいかないと悩んだりしていませんか。社会心理学者の小坂井敏晶さんが著した『答えのない世界を生きる』では、こんな記述があります。

「何がしたいのか、何ができるのか、何をするべきか」これら三つの問いは相互に関連する。どの問いの答えが欠けても、生きる意味は見いだせない。はじめは興味がなくても、成功して周囲に褒められると自分の天職のような気になる。努力するうちに正当化する理屈が現れ、やがて三つの問いの間で循環が始まる。
世界は不平等で、才能は不公平だ。だから、限られた可能性の中で自分の場を見つけるしかない。ピアニストならばコンチェルトの独奏者に憧れるが、超絶技巧の才がないと悟ると、伴奏者になるための訓練を始める。しかし、伴奏者は二流のピアニストではない。独奏者とは異なる技術と知識が要求される別の仕事だ。いつしかその魅力に取り憑かれ、この道が自分に合っていたと後になって分かる。

この「何がしたいのか、何ができるのか、何をするべきか」というのは、非常に重要な観点です。僕が見てきた組織マネジメントはほとんどが「何をするべきか」だけを言い聞かせ、人材育成は「何ができるのか」を増やすことばかりにフォーカスしていました。残りの「何がしたいのか」は本人任せといった風土です。

以前より、僕は「何がしたいのか」をなおざりにする風土に、大きな違和感を抱いていました。「何がしたいのか」は果たして本人の内在的な問題なのでしょうか。そうではなく、与えた仕事を通して何が実現できるのか、どんな風に成長できるのか、鮮明なビジョンを示さなければ、「何がしたいのか」は一向に開発されないのではないでしょうか。

リクルートの組織マネジメント、人材育成はWCM(Will、Can、Must)が尺度となっているそうで、これは「何がしたいのか、何ができるのか、何をするべきか」にそのまま当てはまります。何よりもまず「自分はこんな人になりたい」という Will の設定から始まり、そのためのCan、Mustを組み立てていく順序です。Will の設定には上司や同僚が積極的に寄り添い、「君ならこんな人にもなれるかも」「君の思いはこんなことに繋がるんじゃないか」と、一人では描けない沢山のビジョンを提示し、選択の幅を広げるといいます。

あなたのいる組織は、社員に Must や Can ばかりを要求して、Will を疎かにしていませんか。

近頃、「最近の若者は仕事を振っても、納得しないと動かない」という意見を耳にします。これ、僕は素晴らしいことだと思うのです。昔のような上意下達で言われたことをやる姿勢の方が、よっぽど思考停止でおかしくありませんか。改めるべきは、納得しないと動かない若者ではなく、納得して仕事ができるようビジョンを提示できない上位層の貧困なボキャブラリーです。若者の「何がしたいのか」を開発することは、健全な組織にとって必要不可欠なことなのです。

…と、ここまで書いてきて、もうひとつ思い浮かぶのは「何がしたいか考えろ」と若者を延々と詰めるオッサンの姿です。率直に申し上げて、勉強不足です。「何がしたいのか」は気合いや根性で捻り出すものではありません。適切な内省のステップで創出される、いわば思考技術の産物なのです。

では、どうすれば「何がしたいのか」を思考することができるのか。それには『「自分」をカタチにする授業』がピッタリです。

慶応義塾大学の長谷部先生の講義録です。長谷部先生の専門は教育デザインで「慶応のビッグママ」と呼ばれる人材育成のエキスパートでもあります。

「わたし」が「わたし」でいるためには、わたしではない他の誰か、つまり「あなた」という相手が必要だったのです。

本書では一貫して「対話」の重要性が強調されています。僕は人材育成というものを、手取り足取り教えることでも、放任して勝手に育つのを待つことでもなく、「何がしたいのか」を言語化する「対話」の技術だと考えています。管理職や後輩指導を担当されている方はもちろん、「何がしたいのか」を改めて考えたい方は読んでおいて損のない1冊です。

コントロールできるものと、できないもの

「何がしたいのか」という問いがどうして難しいものなのか。本書では端的にこう言い当てています。

「評価されないこと」が怖いのです。

自分で進んできたように見えて、誰かに合わせて進んできた道なので、自分の人生を生きてきた実感がない。他者や世間の評価に囚われ、架空の、求められる自分を演じてきた結果、「何がしたいのか」が分からない状態に陥っているというのです。

また、Will と Must の関係について、興味深い指摘があります。

私たちはどんなときに「したい」と思っていたことを、「しなければならない」と言い換えてしまうのでしょうか?こうした言い換えは、自分の気持ちよりも「評価を気にした瞬間」に起こるのだと私は考えています。

組織マネジメントで Must が重宝されるのは、評価システムが組み込まれているからです。上下関係による統制で、 Must を重んじる上意下達のマネジメントが染み付いているのも、評価という強迫観念が拍車を駆けているのでしょう。むしろ積極的に意思を捨て、納得できないことでも頑張り抜く献身性を評価してもらおうという風土さえ感じます。成果で評価されたことのない人間は、特に顕著な傾向です。

ところで、「恐怖」と「不安」の違いをご存知でしょうか。恐怖とは顕在化しているものに対する怖れ、不安はまだ顕在化していないものへの怖れです。要するに「不安」とは全て「仮定の話」であって、対象が存在しない問題なのです。対象が存在しなければ解決はおろか、コントロールしようがありません。つまり、世の中には自分でコントロールできるものと、できないものがあるということです。ほどんどの人が、その二つを一緒くたに考えているのです。

僕は、評価をはじめ人からの印象というものは、自分ではコントロールできないものと捉えています。理由はシンプルで、主語が他人だからです。コントロールできない問題など、存在しないのと一緒です。一方、「何がしたいのか」は本来100%自分でコントロールできる問題です。コントロールできない問題、存在しない問題に頭を使うのは時間の無駄で、そのリソースをコントロールできる問題に全振りする方がよほど有意義です。何がコントロールできて、何がコントロールできないのか、世界をバッサリ二つに割って仕分けしてみて下さい。

私はどんな人か

「何がしたいのか」を考えることは、「私はどんな人か」を考えることでもあります。多くの人は「私はどんな人か」など考えるまでもないと思いがちです。本当にそうでしょうか。

そもそも「私はどんな人か」とは、数々の哲学者を悩ませる深遠な問いです。ヘーゲルはそれを「自分というフレームワークから逃れ出て、空高くから地上の自分や周辺の事態を一望すること」と説き、マルクスは「自分が何者であるかは、自分のふるまいを通じて事後的にしか知ることができない」と論じます。ニーチェに至っては、「私たちは自分が何者であるかなど知らない」とすら断じています。

いずれの哲学者も「私はどんな人か」を知るというのは至難の業という見解です。このことは、自分が「何がしたいのか」を開発することがいかに難しいかを示しています。

試しに、他人に自己紹介をすることを想像してください。その時、あなたは自分の仕事、学校、出身地といった「情報」を相手に伝えるのではないでしょうか。実は、これはあなた自身ではなく、あなたの社会的背景を説明しているに過ぎないと本書は指摘します。

「情報を外した自分は、相手にとって無価値かもしれない」そう思ったら、誰だって怖くて、本当の自分なんて出せません。分厚い鎧をまとい続け、「あなた自身」をその陰に隠し続けることでもあるのです。

長谷部先生はコミュニケーションを「情報」のやりとりではなく、「人間性」のやりとりと定義します。本書で紹介されている講義では、面白い思考実験が実施されていました。「自分の呼び名を自分で決める」「自分のイメージを色にしたら何色になるか決める」などです。これは自分自身を抽象化して再定義するということ。思えば、名前すら誰かに与えられたものですもんね。自分のアイデンティティの全てを他者から解放して、自分自身で新たに定義づけることこそ「私はどんな人か」、すなわち「何がしたいのか」を考えるということです。

まずは、自分自身は何色なのか考えてみて下さい。その理由は何故でしょうか。周囲の人は何色だと思いますか。友人と、同僚と、お互いの色を言い当てたり遊びながら、試してみてはいかがでしょうか。 

共感できる自分の物語を作る

「他者からの評価」というコントロールできない問題を頭から追い払い、「私はどんな人か」を対話の中から自分自身で再定義したら、仕上げは漠然と思い浮かんだ「何がしたいのか」の言語化、アウトプットです。

この時、他者が「共感」できるようなアウトプットをするということが重要です。というのも、共感を得られなければ実行に移せないからです。せっかく朧気ながらも「何がしたいのか」が浮かんできたのに、勿体ない。

どこへ行っても同じ「自分自身」なんだけれども、相手のフィールドに入ったら、自分のやりたいことを、相手の分野の語彙で説明したり、相手にわかるやり方で説明しなくてはいけない。

これは上司・部下、先輩・後輩問わず、全ての人に必要な資質です。「納得しないと動かない」若者を動かしたければ、相手と同じ目線に立って説明し、その価値を認識してもらう努力を怠ってはいけません。相手の価値観、相手の専門分野で自分自身を通用させる、という能力であり技術です。僕はこれを「パラフレーズの技術」と呼んでいます。

もうひとつ、「何がしたいのか」の本質を自分で理解できていなければ、他者に共感を得られるような説明はできないからです。他者の共感を得られなければ、それはまだ「何がしたいのか」に普遍性を獲得できていません。

共感を得るコツは「何がしたいのか」を物語としてアウトプットすることです。物語はビジョンという言葉に置き換えても良いかも知れません。「何がしたいのか」に思い至ったストーリーは、他者からは不可侵の、あなただけがコントロールできる世界です。

前述のマルクスの「自分が何者であるかは、自分のふるまいを通じて事後的にしか知ることができない」とは、対偶をとれば「自分のふるまいを通せば、自分が何者であるか知ることができる」とも解釈できます。

多少強引でも、こじつけに思えても構いません。自分の趣味、影響を受けた考え、幸せに感じる時間、ありとあらゆるものを繋ぎ合わせ、自分だけの物語を作って下さい。

具体的な物語は、「共感」を巻き起こします。「共感」すると、年齢も、肩書きも、上下関係も、性差も、すべて関係なくなります。

少し話は逸れますが、上下関係や性差の間で生じるハラスメントの境界は、この「共感」の欠如が土壌にあると思います。誰の人生にも物語がある。相手の物語の重層性に敬意を払うことなく、偏狭な視座で物事を規定しようとするから相手の尊厳に無暗に触れる結果になるのです。

ここまで思い付くままに書き終えて、ふとハンナ・アーレントの言葉を思い出しました。ユダヤ人女性である彼女は、ナチズムから逃れ、アメリカに亡命し、自身の理不尽な境遇を生んだ社会の分析に生涯を捧げました。「個人は全体に従属すべき」という全体主義の下で思考停止し、「何がしたいのか」を見失った人々を、彼女はこう捉えたのです。

「孤独と寂しさは違う。孤独とは、私が自分自身と一緒にいること。自分と一緒にいることができない人が寂しさを感じ、一緒にいてくれる他人を求める。だから、自己と対話できない。孤独にならなければ、人は物を考えられない。 」


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