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なぜ、会社員は人事の話が好きなのか

会社に入って間もない頃から、僕には大きな戸惑いがありました。それは「皆、やたら人事の話をする」ということ。誰々の出世が早い遅い、誰々は評価が高い低いなど、飲み会を中心に様々なコミュニケーションの場で登場するキラーコンテンツです。

なぜ、会社員は人事の話が好きなのか。

僕としては、最近思い付いたアイデア、影響を受けた考え、刺激を受けたデザイン、音楽や本など、聞きたい話題はいくらでもあります。けれど、そうした話を共有できるのはごく少数です。数年来の疑問でありつつも、「まあ、場が盛り上がるなら良いか」ぐらいの気持ちで、人事の話に大して興味を持てない自分が変なのだと割り切っていました。

そんな中で、『なぜ日本企業は勝てなくなったのか-個を活かす「分化」の組織論』を読んだ時、なんだか長年の疑問が氷解した気がしました。この本は日本企業の組織体系や働き方が時代にそぐわなくなった状況を切れ味鋭く論じたものです。決して「社内の会話は人事が話題になりがち」なんていう論考が出てくるわけではありませんが、背後にある共通した問題が見えたのです。

人事の話が好きな理由、それは「共同体組織への適応」の産物なのだと思うに至りました。

日本の組織における人事評価とは

多くの社員が評価に対し過敏になるのは、会社組織が「職場」というより「共同体」を形成している点に原因があると考えています。日本の会社組織の多くは「全社一丸」を掲げ、社員に勤勉さ、高い献身性、そしてチームワークを要求しています。会社という場所は社員がスキルを提供する場ではなく、集団意識の統制下で共同生活を送る場のような体をなしています。

日本人は物事の認識に、内側と外側を強く峻別する性質があります。会社組織は画一性や平等を重んじられ、濃密な人間関係が形成される典型的な内側です。一方で、「よそ者」すなわち外側に対しては極めて冷淡な気質があり、内側と外側の接し方が対照的なのです。それが、内側で生きていくためには、「内側に相応しい人間にならなければならない」という無意識の行動規範の共有に繋がるのです。

人事評価はこの「内側に相応しい人間」を外部承認するシステムのように思います。社内のコミュニケーションで評価について話題になる、それは共同体を維持していく上で、誰が相応しい人間なのか確かめ合う、あるいは自分たちが相応しい人間だと安心したいからではないでしょうか。このことは逆に評価の低い、出世の遅い人間を内側から外側へ疎外する要因に繋がりかねません。評価を追いかけるのは、承認欲求と同時に生存欲求でもあると思います。

ところが実際のところ、人事評価というのはただの主観です。日本にも成果主義が導入されていますが、本来の成果主義とは程遠く、僕は「和式成果主義」と呼んでいます。本来の成果主義は一人ひとりの仕事の分担が明確であり、それゆえに成功条件が明確になり、その達成度合いが測定できるものです。翻って、和式成果主義は仕事の分担境界が曖昧で、集団単位での仕事が多く、どうなれば成功と呼べるのか明確ではないため、成果をもって客観的に評価できません。

成果、すなわちアウトプットで評価できなければ、インプットで評価せざるを得ない(当たり前な帰結である)。

このインプットというのは、簡単に言えば「頑張り」です。そして、そんな曖昧なものは測定することなどできず、評価者の単なる主観に委ねるしかありません。共同体に相応しいか否かは、共同体のヒエラルキー上位者の主観で決まるのです。これを見ると、共同体へのコミットを強める方法は簡単です。評価を不透明にすれば良い。何を基準に評価されるか分からなければ、共同体に従属的になり、ひたすら「良い人」であろうとする他ありません。

人事評価がもたらす影響

こうした人事評価が社員にもたらす影響を裏付ける調査結果が本書では紹介されています。ケネクサという人材コンサルタント会社が世界28ヵ国に対して行った、「エンゲージメント」の調査です。エンゲージメントは従業員の仕事に対する積極的な関わり方をあらわす指標で、「熱意」とも訳されたりします。このエンゲージメント、なんと日本は28ヵ国で極端に値が低く、最下位だったのです。日本人は勤勉かつ献身的だが、仕事に対するモチベーションは極めて低いという結果です。

これには労働条件やワークライフバランスも大いに関係していると思います。ただ、僕は人事評価システムにも原因の一端があると見ています。前述のとおり、人事評価は上位者の主観です。このため、社員には個人的な野望や目標を超えた、共同体への忠誠心や貢献が求められがちです。それが社員の思考を内向きに閉ざし、組織や上司への心理的な従属をもたらします。社員のエンゲージメントのベクトルが「仕事」に対してではなく、組織や上司に対して向けられているのではないでしょうか。

アメリカの心理学者であるエドワード・デシの研究によると、人は自身の内発的な動機に比べ、「報酬を与える」といった外部からの動機づけを行うことで、長期的にみるとかえってモチベーションが低減するようなのです。これは「アンダーマイニング効果」と呼ばれるもので、本書でも触れられています。

それに加え、行動心理学の創始者であるバラス・スキナーは、人は意思に関係なく報酬が不確実なほどハマりやすいという性質があるといいます。不確実な報酬条件下において、脳内でドーパミンが大量に分泌され、欲求の追及に駆り立てられるのです。ギャンブルなどがその典型例で、意外にSNSの中毒性も同様の原理だといわれています。

この「報酬」を「人事評価」と読み替えれば話は見えてきます。人事評価というものは典型的な外部からの動機であり、しかも他者の主観によるため不確実性を伴うものです。他者からの評価を行動動機として持つ人は長期的なモチベーションを維持しにくく、かつハマったら抜け出しにくい二重苦に縛られているのかも知れません。

共同体を生むもの

ところで、こうした共同体はなぜ形成されるのでしょうか。僕たちが学んできた歴史は、人民は自由を望み、時には闘争も辞さない覚悟で権力者から権利を勝ち取ってきたというものです。ところが民主化を経た日本においても、会社という組織の体裁は「権力による支配」そのものです。僕たちは自由を希求する一方で、自ら進んで支配や統制の配下に身を置くという矛盾があるのです。

ドイツの哲学者のエーリッヒ・フロムは、大衆は自由と引き換えに課される孤独や責任を受け止める覚悟を持てず、あれほど望んだ自由を簡単に投げ捨て、権力による制約や束縛を受け入れる性質があると、著書『自由からの逃走』で論じました。特に、こうした性質の強い人間は権威に進んで付き従うことを好むと同時に、自身も権威に加わることを望むもので、他者を服従させたい欲求を持っているとも指摘します。これはナチズムに傾倒した当時のドイツ国民を捉えた鋭い批評で、現代にも通ずる人間の本性の一部でしょう。

そもそも、こうした「完全なる自由」か「秩序ある支配」かという二律背反は、市民革命が盛んとなった18世紀以前より議論がありました。イギリスの哲学者・ホッブズは、自由は無秩序を生み、次第に人は利己的な欲求のままに殺し合いを始めると説き、安定した社会を作るためには大きな権力を持つ権威が必要と主張しました。これは社会契約論という、選挙を通して権力を付与する現代の間接民主主義のルーツとなる政治哲学です。

共同体を形成するのは、僕たち人間の持つ「自由を扱い切れない弱さ」ゆえの習性なのでしょう。その代償として権威による支配を受け入れ、その支配構造に加わりたいと願う、こうした人間の心理メカニズムが人事評価システムと非常に親和性が高いのだと思います。

なぜ、僕は人事評価の話題に興味がないのか

ここまで、人事の話が好きな理由をツラツラと書いてきました。多くの人が内側に相応しい人間として適応すべく、人事評価という権威めいたシステムにコミットする、それが共同体を生きる術として無自覚に再現されているということです。

では、なぜ僕は人事の話に興味を持てないのか。僕だって共同体という内側を生きる人間のはずなのに、です。

確信は持てませんが、以前にも書いたとおり、僕は自分にコントロールできない問題を思考から除外しているからかも知れません。前述のとおり、人事評価が他人の主観である以上、自分にコントロールできることではない、そう捉えているのだと思います。面白い仕事ができるか、周囲と楽しく過ごせるか、自分が何を感じ何をアウトプットできるか、僕の興味はそんな自分のコントロールできるものにしか向きません。

もうひとつ、僕は他者と競争する暇があるなら、自分が最も力を発揮できる領域を探す方が好きなのです。SMAPの『世界に一つだけの花』で「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という有名な一節がありますが、これは個人的に全く賛同できない発想です。自分の価値は「競争でナンバーワンになること」でも「もともと特別なオンリーワン」でもありません。自分がナンバーワンになれる世界を探し当てることです。周囲に競争相手のいない不可侵の領域に君臨すること、これが人の価値の決定要因だと思っています。

ビジネスでもスポーツでも芸術でも、成功者に共通するのは、「勝てる場所で勝負した」ということ。努力しても成功するとは限らないのは、努力する世界が間違っている可能性があるためです。成功事例から「何を、どれぐらい頑張ったか」など知ったところで、ほとんど無意味です。成功の秘訣は「どうやって勝てる世界を見つけたか」ですから。

このように、僕は内側にいながら「どこで勝負しようかな」「どこで違いが出せるかな」ということばかり考えています。ゆえに、ある定められた尺度、特に「人の主観」という曖昧な基準に、自身の価値を委ねられないのでしょう。管理職として部下に接する時も同様で、ひとり一人に「この分野なら、この勝負ならナンバーワンになれる」という舞台を見つけ、そのポジションで個を磨くことを何より優先させてきました。多様性とは、各々の違いによる成果の総和を最大化することでもあります。少ない評価尺度に人を閉じ込めると、価値ある「違い」が無価値な「優劣」に埋没してしまいます。

国家、会社、学校…伝統的な共同体には綻びが見え始めるようになりました。そのため内側の結束をさらに強めようと、外側を強く排斥するような動きも見られます。移民排斥、マイノリティに対する偏見、いじめ…背後にあるメカニズムは全て同じなのです。僕たちは共同体とどんな距離感で生きるべきか、人事の話が頭上を飛び交う中で、ふとそんなことを考えたりします。

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