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30代の生きづらい社会

最終の地下鉄に揺られながら、今日の打ち合わせのメモを見返す。殴り書きで何が書いてあるか分からない単語と、雑なスケッチ。とりあえず締切だけは解読できる。明日の朝だ。

家に帰って資料を修正するとして、3時間ぐらいは寝たいな…などと時計を見ると、日が変わっていた。

僕は30歳の誕生日を地下鉄の座席で迎えた。

当時の僕は建築設計事務所に勤務していた。輻輳するプロジェクト、いつまで経っても折り合わないクライアントの予算、山積みの図面の修正、現場から催促される質議回答、それでも頑として譲れない自分の拘り…。作業に集中しようにも、すぐにスマホのアラームが鳴る。次の打ち合わせだ。

当時の僕は明日のことなど考える間もないほど、今この一瞬をギリギリで綱渡りしながら、どうにか毎日を凌いでいた。

世間では、30歳という年齢の節目が、20歳とはまた違った意味合いを持つのでしょうか。また、30歳手前から「アラサー」という、何かを表しているようで大して意味のない不思議な言葉に括られたりします。実際のところ、僕はそんな余裕のある状況でもなかったので、30歳になっても大した感慨はありませんでした。

2012年に発刊された『リアル30's “生きづらさ”を理解するために』は当時の30代の生きる世の中に関する毎日新聞の連載をまとめた書籍です。連載時にはツイッターで大きな反響があり、実際に30代を生きる多くの生の声が書籍に盛り込まれています。

生きづらい社会

本書がターゲットとした30代は、バブル経済崩壊以降の失われた20年に青春時代を過ごし就職時には氷河期だった、いわゆる「ロストジェネレーション世代」です。

厳しい雇用環境で非正規として職を転々としスキルを身に着ける機会に恵まれなかった人、過酷な就労環境に疲れ果てた人、働いても働いても生活の基盤を築く十分な収入を確立できない人…本書はこの世代が直面する社会を「生きづらい」と表現します。

  社会は彼らの期待をかなえられなかった。加えて、「社会は厳しいもの」とすっぱり割り切る20代に比べて、「自分の努力が足りなかったかも知れない」という自分への責めもまた重く引きずっている。

  時代の変化に目をつぶり、過去の栄光を忘れられず、若い世代の窮状を想像さえしない先行世代への幻滅、「別の選択をしていたら」とか「今後は選択を間違えられない」という不安感とも緊張感ともいえない感覚―それこそが、30'sの抱える「生きづらさ」の正体だと思う。

特定の年齢帯にフォーカスすると、いたずらに世代間の対立を煽り、互いの溝が埋まらない非建設的な議論になりがちです。ただ、ロスジェネ世代が対峙させられた社会があまりに理不尽であったことは間違いありません。この世代が捉える社会の価値観、人生観はどのようなものなのでしょうか。

本書で紹介される各々の人生観を総じて言うと、「教えられたとおりに生きても、幸せにはなれない」という猜疑心です。30代らしく、職場という社会での自分の心の持ち方に、それが表れています。

  自分なりに頑張るが、「無理しろ」と言われてもしない。そう言った人はたぶん責任を取ってくれない。

  「継続は力なり」って言われても、力になってないじゃん。会社を出た時にどうやって食っていくか、いつも考えてる。

  「何かあっても社会は自分を助けてくれない」と感じる。「老後のために貯金してどうするって思う。貯金は人生の選択肢を増やすため、会社が立ちゆかなくなった時のため」

戦後日本の「会社」は新卒一括採用・終身雇用のモデルを確立させ、多くの大人の人生設計はそこに依拠していました。それが「会社に人生を預けている」意識に繋がり、高年齢層を中心に、会社に対する忠誠や献身をマインドセットされた層が存在します。これは会社を「国家」「家族」に置換しても成り立つ考え方です。

自由がもたらす迷いと不安

30代は日本に長く定着してきた考え方に強い抵抗を示しています。これには二つの要因があると考えています。

ひとつは会社の年齢構成です。現在の会社は若年層の人手不足に頭を悩ませています。景気低迷局面で自ら進んで新卒採用を絞ったのですから、当然の帰結なのですが。そのため沢山の管理職・ベテラン層と少ない若手実務者という歪な構成となり、昔は大勢で等分に担ってきた仕事も一人に極度に集中することになります。

また、現代の仕事は考える範囲・頭脳労働量が以前よりも顕著に増加しています。ですがベテラン層は「自分はこなしてきた」という自負があるためか、「努力で乗り切るもの」という姿勢を堅持します。ひとり当たりの労働に求められる質・量とも格段に上がり、昔と同じ頑張りでは到底もたないのに、それを度外視した労働配分がされているのです。

もうひとつが人生の情報量の増加です。SNSの普及により、今では他人の人生が簡単に把握できるようになりました。その結果、自分の人生の質を測る尺度が構築され、他の生き方があるのではないかという疑問が付いて回るようになるのです。

フリーランスの生き方、海外を自由に行き来する生活、ワークライフバランスの充実、日々の仕事に追われる中でとても甘美な光景に写ります。現代の生き方が突然多様化したというよりも、昔は情報を入手する機会がなく、単に「皆も同じ」という思い込みで疑問を持てなかっただけなのでしょう。

こう考えると、30代の抵抗はとても健全な考え方にも思います。「会社のため」「こう生きていくのが正解」という思考停止から解放され、考え方の自由を手に入れたのです。ただし、自由は正解の喪失を伴います。「人類に自由など過剰な権利」という論説もあるほどです。

どのように生きるかを選択できるとして、何を選択の軸と定めるか。選択に従って生きたとして、時に選ばなかった選択を後悔したり過大評価するあまり、手にしている幸福を見失わないか。選択に対する評価基準を明確に持たなければ、自由は迷いと不安を起動する装置にもなります。この迷いと不安が、30代を支配する空気、生きづらさに繋がっているのでしょう。

時間的価値にみる行動原論

ところで、「金銭の時間的価値」という概念はご存知でしょうか?お金には現在価値と将来価値があるという考え方です。ざっくり言うと、現在の1,000円と来年の1,000円は同じ価値ではないということです。

いま1,000円を貰えるとしたら、何かに投資、運用して利息や利益を稼ぐことが可能になります。したがって現在の1,000円は、来年には1,000円+αに化けるポテンシャルがあるということです。

逆に言えば、来年1,000円貰えるという権利は、現在に換算すると1,000円の価値もないということで、幾分か割り引いて換算する必要があります。この換算値を割引率といいます。企業が投資する際、必ずこの現在価値と将来価値を見比べて実行を判断します。

IRRやNPVといった投資判断指標も、全てこの金銭の時間的価値に基づく考え方です。投資リターン(将来価値)が、いま手持ちのキャッシュの利回り(現在価値)よりも大きければ実行する、ということです。

僕は生きていくことに、ポリシーだの人生訓だの、立派な考えなど持ち合わせていません。ただ、行動を決定する評価の物差しとして、時間的価値をあらゆる物事の価値に拡張して捉えています。

いつか貰える恩恵を待っていまを我慢するぐらいなら、いま行動してリターンを増やそうという発想で動いています。期待したリターンが得られるか不安で動けなくなる例を見聞きしますが、これは投資(=行動)の局面ではあり得ない考え方です。

その不安は単純に今後の計画を詰め切れていないため、不確実性が高いことに原因があるのです。であれば、ひとまず行動するか否かを決定する前に、リスクケースを浮かべながら「どうすればリターンの確度が上がるか」を考えることに専念すれば良いわけです。

「将来の恩恵のため現在を耐え忍ぶ」という発想は長く日本に根付いた価値観そのもののように思います。そうした価値観に抵抗するのであれば、現在の時間的価値を評価した行動原論に立つべきではないでしょうか。

また、従来の「みんな一緒」という人生モデルの前提が薄まり、現代は各々の生き方が容易に手に入る時代でもあります。ただ、他者の行動や人生を参考にするとしても、自分との境界を見失わず、過度に依存しすぎないことです。

時に、他者の成功を妬んだり、他者の失敗に安堵する健全ではない心理が芽生え、それが自分の行動を不要なほど慎重にさせます。他者の成功はあなたの失敗ではないし、他者の失敗があなたを幸せにしてくれるわけではありません。

皮肉にも、多様な生き方や価値観を訴える世代で、「人生を幸せにする10の法則」のように、人生を規定する書籍や商材がバズったりします。生き方が多様になったゆえに「正解」がなくなり、どうすれば成功確率が高まるか、皆が不安なのです。

30歳の僕が得たもの

30歳になった頃の僕はただひたすら毎日を乗り切って、過ぎ去りました。それが何に繋がったのかは分からないけれど、僕には沢山の「できること」が身に付きました。

ひたすら仕事が降ってきた20代から、30代は「自分が何を実現したいか」に直面する年代でもあります。その時、手持ちの「できること」が多いと、実現したいと思える選択肢も自ずと広がっていきます。

僕は30歳の頃、現在の行動に投資し、将来のリターンを増やしたのでしょうか。それとも現在を耐え忍び、収穫の時を待っていたのでしょうか。もうお気づきと思います。「現在の時間的価値」も「将来のために耐え忍ぶ」も表裏一体で、捉え方だけの違いなのです。

ニーチェは「世の中に真実はなく、あるのは解釈だけ」と言います。生きづらい社会に必要なのは、あるかどうか分からない正解を探すのではなく、生き方の解釈です。

あの地下鉄で呆然と30歳を迎えた当時の僕が得たもの、それを解き明かすのはこれからの僕です。何に繋がったのか、後になれば分かる。不安や迷いへの回答を未来の自分に託し、30代は生きづらい社会を懸命に泳いでいるのです。

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