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世界には、過去も未来も存在しない

明日までの仕事、1年後の目標、10年後の生活…僕たちの想像は、いつも未来に対してのものです。一方で、昨日あった嫌なこと、1年前の誕生日のお祝い、10年前のクラスメートとの遊び…僕たちの記憶は、過去に過ごしてきた経験に基づきます。

過去から現在を経て、まだ見ぬ未来へと流れていく。誰が初めに流し始めたかは定かではありませんが、どうやら世界は「時間」という川の流れの中にあり、僕たちを一人残らず同じ速さで、同じ方向へ運んでいるようです。

ところで僕は以前、僕たちに「意思」はあるのか で意思の存在を否定し、同時に哲学の観点からみると「未来」が真正な時制か疑わしいと書きました。

簡単に言えば、未来とは世界に厳然と存在しているわけではなく、人の認知の中にのみ生息する概念だということです。認知の中での「未来」とは何かというと、人が何らかの「意思」により創出した結果のことです。仮に、人に「意思」などないとすれば、意思が作る「未来」という概念すら消え失せるということです。

「未来は存在しない」など、にわかに受け入れがたい考えかも知れません。ところが物理学の世界に目を移すと、哲学が投げかける未来という時制への疑問を、さらに疑わしくさせます。

イタリアの理論物理学者、カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』では、物理学において「過去と未来を分かつものは存在しない」ことが論じられています。

過去と未来、原因と結果、記憶と期待、後悔と意図を分かつものは、じつは、世界のメカニズムを記述する基本法則のどこにも存在しない。

僕たちは過去と未来が存在していることを前提に日々の生活を送っています。でも、その前提がそもそも存在しないのであれば…一体、これまで送ってきた毎日は何だったのでしょうか。そして、これから来るであろう日々は何なのでしょうか。

過去と未来の存在を証明できない

時計に目をやると、秒針が動いています。スマホの画面にはデジタルで現在の時刻が表示されます。これだけで時間の存在は疑いようもなく思えてきます。

でも、よくよく考えてみると、時計は時間を刻んでいるわけではありません。歯車が電池から動力を取り出して回っているだけです。スマホの画面も一定のリズムで数字表示を変化させているだけです。つまり、時間がそれらを動かしているのではありません。

僕たちは2階のベランダからボールを落とすと、地面に落ちることを知っています。しかし、それとて地球の重力という力の作用の証明であって、時間が何らかの関与をしているわけではありません。

2階にボールがあった過去と、地面に落ちる未来、つまり原因と結果のように錯覚しますが、物理学ではそれらを原因とも結果とも捉えません。ボールが存在する、重力が作用する、それだけです。両者にある一方向の流れを与えているのは、時間ではなく、人間の認識です。

原因は結果に先んじるといわれるが、事物の基本的な原理では「原因」と「結果」の区別はつかない。この世界には、物理法則なるものによって表される規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは未来と過去で対象だ。つまり、ミクロな記述では、いかなる意味でも過去と未来は違わない。

やや難解な表現ですが、ボールが2階から地面に落ちる経過に原因と結果の関係など観察されず、ただの時間の集積だということです。人の動体視力は微小な時間断面を捉えることができないため、ボールを落とした瞬間と地面に落ちた瞬間以外は、一連の流れに見えてしまうのです。

よって、まるでボールを落とすという「原因」が、地面に落ちるという「結果」に作用しているように錯覚してしまいます。作用しているのは「原因」ではなく重力ですが、重力がボールを地面の方向へ押していくように認識できないため、過去と未来という関係性の枠組みに理解を押し込めてしまうわけです。

エントロピーは人間の認識の狭さ

しかし、ちょっと待ってください。僕は 言葉の持つちから の冒頭で書いたことを思い出しました。エネルギーの量は増えも減りもしないが、エネルギーの質は消費するたび減っている、と。熱いお湯と冷たい水は利用価値の高いものですが、両者を混ぜると利用価値のほとんどないぬるま湯になります。

このエネルギーの質のことをエクセルギーといい、僕たちはエクセルギーを消費して毎日を過ごしています。物理学にはそれを逆さまに捉えた「エントロピー」という概念があります。たいへん難しい概念ですが、大雑把に言ってしまえば「使い終わった残渣」のようなものです。決して再利用はできません。

エクセルギーの消費は、エントロピーの増大を意味します。なぜエントロピーなどという概念が必要かというと、全宇宙のエクセルギーの総量など分からないからです。そのため、どこまで使い続けられるかが把握できず、全体像を捉えるのに不便な物理量なのです。

逆に、時間とともにエントロピーは増えていく一方です。宇宙が誕生した時のエントロピーはゼロで、その瞬間から今日までエントロピーが増え続けているとすれば、頭の中からエクセルギーの総量という宇宙の広大さを追い出すことができます。僕たちは生まれてから死ぬまで、エントロピーを増やし続けています。

エントロピーの変化は時間そのものでしょう。熱いお湯は何の力を加えなくても使い道のないぬるま湯になるのはエントロピーの増加であり、これは時間の一方向の流れにより生まれる不可逆の変化です。こう捉えると、エントロピーは過去と未来を分かつ物理量ではないでしょうか。

しかし、本書ではそれすらも人の認識の限界によるものだと反証します。過去をエントロピーが低い状態だと捉えるのは、人間が世界をある一面から見ているだけに過ぎない、と。

トランプの 52枚のカードが赤と黒に整然と並べられているのを混合させていけば、色が交じり合った雑然とした配列になります。秩序立てられた状態から無秩序な状態へと移行したように思えます。

ところが、それは単に人の認識が「色」という観点からトランプを捉えているだけに過ぎません。赤と黒の混合が赤一色よりも無秩序に見えるように、最初の認識が狭まっているだけなのです。

もしも 1枚目から 26枚目までのカードが全て赤で、その後の 26枚が全て黒なら、そのカードの並びは「特別」、つまり「秩序立っている」ことになる。今、カードをシャッフルすると、この秩序はなくなる。最初の並びは「エントロピーの低い」配置なのである。
ただし、元々の配置が特別なのは、赤と黒というカードの色に注目したからだ。色に着目するから特別なのだ。

現在は誰かにとっての過去であり、未来でもある

先日、ZOZOの社長を退任した前澤さんは月に旅行することを目標に掲げています。月と地球は光の速さで 8分ほどの距離のようです。つまり、もしも前澤さんが月に降り立って、そこから望遠鏡で地球を覗いた時、彼の目に飛び込んでくるのは 8分前の地球です。

この瞬間、面白いことが起きています。前澤さんが見ている地球は 8分前と言う過去の地球です。このことから、地球が過去で、前澤さんが未来にいると言えるでしょうか。

もっと距離を伸ばして、僕が光の速さで 4年、つまり 4光年離れた星に降り立って、あなたの姿を望遠鏡で覗いたとします。僕が見るあなたの姿は 4年前のあなたです。しかし、僕が望遠鏡を覗いている動作そのものは、僕にとって現在です。一方、僕のこの動作をあなたが地球から望遠鏡で覗くとします。この時、僕を覗いているのは 4年後のあなたです。

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俯瞰すると、奇妙なことが起きています。僕を起点にした時間軸で言えば、僕が覗いたあなたは 4年前、僕を覗くあなたは 4年後です。つまり、僕が望遠鏡を覗く時、過去のあなたと未来のあなたが同時に関係していることになります。

いま僕たちが「現在」と認識している時間も、広大なスケールにズームアウトしてみれば、誰かにとっての過去であり、未来でもあるということです。逆に言うと、僕たちが「現在」という時間を共有できるのは、距離の影響が無視できる関係の中で思考しているに過ぎないからです。こうした思考実験は、過去と未来が存在するのは認識の枠組みの中だけということを思い知らせてくれます。

認識の枠組みからの自由

物理学の見地からみても過去と未来を分かつことができないのに、僕たちはなぜ時間の概念から逃れられないのでしょうか。

ひとつには、公共の秩序を維持する目的で、幼少の頃から「原因と結果」の関係を教育で刷り込んできた側面があります。子どもは怒られたり、泣いたりした時、大人からその「原因」を言って聞かされます。ある原因が特定の結果をもたらす、悪い結果には必ず悪い原因がある、そうして過去と未来の概念が形成されていきます。成長するにつれ、社会に悪い結果をもたらさないよう、原因となる過去を作らないために、現在の自分を律することを覚えていくのです。

因果応報、信賞必罰といった観念は多かれ少なかれ、誰もが有する認識の枠組みです。伝統的な宗教においても、信じる者は救われる、善行を続ければ天国へ行けるなど、過去と未来の合理的な関係を論じていました。

ところが、16世紀頃にはそうした伝統的価値観に変化が訪れます。スイス人神学者のジャン・カルヴァンが「神が救済する人間はあらかじめて決まっており、信仰や善行など関係ない」と唱えたのです。これは予定説と呼ばれ、プロテスタントの思想を規定する考え方です。

予定説は免罪符に代表されるカトリック宗教家の腐敗に対するアンチテーゼでしたが、当時の価値観を揺るがす思想でした。こうした認識の枠組みの変化は現代にも影響を及ぼし、ドイツ人社会学者のマックス・ヴェーバーは予定説が呈した因果説や合理性に対する反証は、近代の資本主義に結び付いていると主張しています。

過去と未来が存在するか否かは大した問題ではありません。時間の存在を前提として思考する一方で、「時間など存在しない」という認識を持ってみると、認識の枠組みから自由になれるということです。そして認識の枠組みから自由になると、普段は当たり前として片付けていたものが突然面白く思えてきたり、刺激的に感じたりします。

未来に、先行きに不安を抱いたりした時、認識の枠組みを疑ってみてください。そもそも、僕たちはどこかへ流れているのだろうか。過去も未来も、僕たちの頭の中にしかない物語に過ぎないのではないか。解決策を考える前に「解決を考えるべき問題なのか」の取捨選択が必要です。

ほとんどの不安や悩みは現実には存在せず、あなたの認識が生んでいるだけなのだから。

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