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悲しみのメカニズム

2011年3月11日14時46分、僕たちはそれまでの価値観を根底から覆す出来事を目の当たりにします。東日本大震災はこの国を支えていた安全、インフラ、生活基盤が絶対のものではないという事実を突きつけました。何より、平穏な生活を奪われた人々の心中は察するに余りあります。
僕は発災後、何度か東北を訪れています。当時、仮設住宅にお住まいだった方々ともお話しする機会がありました。「孫がゴールデンウィークに会いに来てくれる」「殺風景だけど、お花を植えると心が安らぐ」と優しく語りかけてくれた方々を思い出すと、少しでも平穏を取り戻せていることを願わずにいられません。ですが、僕たちは被害の甚大さを嫌でも見せつけられる一方、そこで暮らす人々のその後をほとんど知りません。

『私の夢まで、会いに来てくれた 3.11 亡き人のそれから』は、東日本大震災で大切な人を亡くした方々へのインタビューに基づく、「その後」の記録集です。書籍をまとめた東北学院大学の金菱教授のゼミでは、発災直後から「震災の記録プロジェクト」を立ち上げ、現地を精力的に回り、次代に継承すべき様々な記録を収集しています。本書では、遺族の見た「夢」という一本の手掛かりを辿り、27編のインタビュー記録がまとめられています。遺族へのインタビューというのは、語り手にも聞き手にも、辛く難しい方法です。調査にあたった金菱教授およびゼミの所属学生には、記録には記されていない様々な葛藤があったことでしょう。

本書の最後に、金菱教授の「夢」という手掛かりに至った経緯についての詳細が記されています。その中で、とても印象に刻まれる遺族の言葉がありました。

この痛みをカウンセリングで治してしまったら、悲しみも苦しみも消えてしまうんじゃないか。私がすっきりしたら、あなた(死者)のことを忘れてしまうかもしれない。生きていくのがつらいから、心の痛みを消したいし、逃れたい。そうならなきゃいけないのもわかっているけれど、消すには罪悪感がある。だから、前に進めない。

僕はここに親しい人との別れにある、悲しみのメカニズムを見たのです。この言葉に触れた時、森絵都さんの『永遠の出口』の一節を思い出しました。

どんなにつらい別れでもいつかは乗り切れるとわかっている虚しさ、決して忘れないと約束した相手もいつかは忘れると知っている切なさ。多くの別離を経るごとに、人はその瞬間よりもむしろ遠い未来を見据えて別れを痛むようになる。

大切な人との別れ、特にもう二度と会うことのできない別れは、その訪れがあまりに突然で、僕たちの心に巨大な真空を生みます。その真空は普段自覚していなかった沢山の思い出を急速に脳裏から吸い寄せ、その全てを「もう会えない」という記憶の棚に放り込むのです。
人が悲しみに暮れる時、僕はそうした過去の思い出に思いを馳せていると思っていました。

しかし、『私の夢まで、会いに来てくれた』や『永遠の出口』では、むしろ「別れの痛みが次第に癒えていく」という未来を悲しむというのです。

人は辛い別れに対し「悲しみを乗り越える」という表現をすることがありますが、実際には「乗り越えること」自体が悲しみの源泉なのです。この前提に立つと、死別の際に墓を立て、時期が来れば死者を思い出し祈るというのは、「忘れる」という悲しみを抑制する行為と言えます。古くからの風習は、悲しみのメカニズムに対する科学的な回答だったのかも知れません。

「悲しい」という単語ひとつで感情の表層を言い表してしまうと、その正体を見失い、ひいては自分のことが分からなくなってしまいます。これは「悲しい」に限らず、あらゆる感情、事象に当てはまることです。『私の夢まで、会いに来てくれた』では、夢の叙述を通じ、別れが与える意味、感情の正体、世界の捉え方など、目に映る現象を言語化する重要性を改めて学ばせてくれます。

生きていく中で、悲しみは避けては通れません。また、悲しみは自分だけの問題ではなく、誰でも等しく、傍にいる人にも訪れるものです。自分を支え、他者を支えるとは、感情の背後にあるメカニズムと向き合うことなのです。

とはいえ、「いつか忘れていく」という悲しみのメカニズムは、残された人にとって、それでも人生が続いていくための大切な力でもあるのです。『永遠の出口』は最後をこんな文章で締めくくっています。

急に独りになった薄曇りの放課後みたいな、あの懐かしい風の匂いが鼻をかすめるたび、私は少しだけ足を止め、そしてまた歩きだす。


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