釣りについて考える(1

趣味というものは数々あるが、長続きする趣味の一つだろう。
釣りは本能に基づく行為なので、快感が伴う。
その楽しみを知ってしまうと、止められないと言ったわけだ。

中国のことわざにも、

「一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。」
「三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。」
「八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。」
「永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。」

とある。

世界中に釣りをする人はいて、釣りに一生を費やす人もいる。

人生について書いてきたが、閑話休題。
釣りについて、考えてみようと思う。

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家族というものを振り返ってみる(2 でも書いたが、父が釣りクレイジーであったために、子供の頃から釣りには良くでかけていた。

しかし、自分自身は釣りにはさほど興味がなかった。

それでも小学生、中学生の頃は、仲間と釣りに行ったりした。高校生の頃になると、やや遠くまで出かけたりして、細々とではあるが釣りは続けていた。

そのうち釣り仲間と関係が疎遠になると、釣りも行かなくなった。

後は、大人になってアウトドアデートと言った感じで釣りをしたくらいだろうか。
そういう意味では、釣りによって快楽は得られてはいなかった。


身近にあったという意味では、小学生の頃は近所の川でも、まだゴカイが取れて、それを餌にハゼ釣りなどができた。しかもそのハゼも、皆食べたのだ。
ただしその川は、工業地帯の日本一汚染されていると言われた川だった。今考えると、魚も汚染されていなかったのか気になるところだが、水俣のように病人が出たとも聞かないし、特定の酷い汚染物質があったわけではなかったのかもしれない。
病人が出るよりも汚くなる方が早く、誰も川になど近づかなくなった方が、先だったのかもしれない。

内陸に入ると、水が湧き出て池を作っているところがあったので、そういったところにも釣りに行った。

テナガエビやザリガニを釣るのだ。
子供にとっては、気軽な釣り物で、駄菓子屋で買ったスイカ(酢味のイカ)を餌にして、棒きれにテグスで結んで釣るのだ。
テナガエビなどは、たくさん釣れると、唐揚げにして食べると美味しく、ご馳走だった。

その当時は、実家の目の前が材木屋だったが、材木屋は川に材木を浮かべて運搬もしていた。
東京で言えば木場みたいな感じで、川の上流の方で切り出した木材を下流まで運搬し、貯木していたのだ。まだ木材で家を作るのが主流で、戦後の復興には欠かせない産業だったのだろう。
自然環境も高度成長期以前の要素がまだ残っていた、昭和中期の話だ。

生き物も、小学校などの溝(ドブ)、側溝などにはタニシなどがいたし、緑色のアマガエルなどもいくらでもいた。
段々と、側溝もなくなり、緑も減って、こういった生物も見なくなった。

それに伴って近くの釣り場もなくなっていった。

中学生や高校生になると、海釣りをしていた。

電車で海岸のある町まで行った。

投げ釣りをするのだが、最初は道具も粗末なもので、少ししか投げられないので、釣果などはほとんど無かった。

今とは違って、子供たちだけで遠くに行っても、さほどうるさくはなかった平和な時代だった。

好きでよく行ったのは、葉山や逗子、馬堀海岸もよく行った。

葉山や逗子では大したものを釣った覚えがないが、馬堀海岸では当時はまだアイナメが釣れた。

しかもビール瓶サイズといった、大物がたまに釣れたのだ。

それでも自分的には釣りをしたいというよりは、遠くに行けることのほうが嬉しかった。

釣り友達と離れてしまうと釣りもしなくなったのは、やはり釣りがさほど好きではなっかたのだと思う。。

その後しばらくは、たまに釣りをすることもあったが、覚えていない程度だ。

そして改めて始めたといえるのは、今の海辺の住まいを買ってからだった。

海が近くにあることで、釣りという行為が身近になった。
家があるので、食料調達にもなった。

海岸からの投げ釣り、防波堤からの浮き釣り、貸しボート屋が近くにあったので、ボートを借りて沖のボート釣りなどをした。

投げ釣りでは、定番のシロギスやカサゴを狙うのだが、まだ魚影も濃く、そこそこ釣れた。

堤防からは、メジナやウミタナゴを狙った。

やはり一番釣れたのは、沖に出てボート釣りをした時だった。

特にポイントというほどの事もなく、魚のいそうなところを流していたり、錨を下ろして、ちょい投げしていても結構な数が釣れた。

シロギスは、30、40尾、大きさもかなり大きいのがいて、30cm近い物も釣れた。この大きさは、肘たたきといって、シロギスでは大物だ。

カワハギなども数釣りができ、型もやはり大きかった。

父親ともボートに乗ったが、父はシロギスやカワハギの大会で優勝したこともあるので、さすがに数を釣った。

手こぎボートだが、やや深い所に行くと、アマダイまで釣れて感激したものだ。

アマダイなどという魚は、それまで見たこともなかったので、一番最初は、イラが釣れたのをアマダイだと言って、喜んでいたのはご愛嬌、その後は、もちろんアマダイも釣れるようになった。


最初の頃はそんな感じであったのが、その後漁師にまでなってしまった。

続きます。。

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