家族というもの、を振り返ってみる(3

大概の生き物は、生殖行為によって生まれる。

人間もまたしかり。

しかし人間だけは、生まれたときからしばらくは、とても弱い存在で単独では生きていけない。

育てる事が必要になって、育てる場を家庭というのだろう。

母について振り返ってみたいと思います。

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前回までに書いたように、良くも悪くも、うちの家庭は父を中心に動いていたといえる。

その影で、母は苦労しただろうが、それなりに楽しんでいたこともあった。

母の両親が今の実家に越してきたのは、戦後すぐだったようだ。祖母は看護婦をやっていて、祖父は整備工だったと聞いている。

母は4人姉妹の長女で私が生まれた頃は、一番下の妹が実家を出るか出ないかと言った頃だと思う。

姉妹仲はよく、それぞれが結婚してもしょっちゅう行き来していた。次女は結婚後、埼玉に移り住んだが、3女と4女は歩いていけるくらいの所に住んでいた。

正月などは狭い家にそれぞれの家族みんなが来て、賑やかに過ごした。親戚の旦那さんたちも、今思えば、嫁の実家に来ていたわけで、優しい旦那さんだったのだなと思う。

それぞれの家庭に子供が生まれて、大所帯になっても、私が中学生になるくらいまでは集まりが続いた。

一番下の妹(叔母)は、私にとってはお姉さんのような存在だったし、姉妹の中での初めての子供ということで皆に可愛がられた。

自分の中の女性的な部分は、そういった環境から身についたのだと思う。

祖母は私が2歳位の時に亡くなったが、うっすらと記憶がある。看護婦をしていたということで、当時としては進んだ人だったのだろう。娘たちにも良い教育を受けさせていた。

祖母は上杉鷹山の「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」を座右の銘にしていたと、母から聞いていた。

母も含めて、叔母たちの行動力は、こういった精神を受け継いだものなのだろう。

この言葉は、自分の中にも深く刻み込まれて、今でも行動指針になっている。

祖父が痴呆症になったときも、母は自宅で介護した。
下の世話までするのは、実父とはいえ大変だったと思う。

母は基本的に優しい人で、父からはお灸をすえられたり、家に外に放り出されたりしたが、母からは怒られた記憶がない。

ある時、まだ6〜7歳の頃だと思うが、父に叱られて外に出されたことがあった。幼くとも理不尽さに怒った私は、家出した。

母が探し出して見つかった後、町内中を裸足で逃げ回ったことがあった。だがその時も叱られた記憶はない。

小学校低学年の時、以前子供の頃(1で 書いたが、荒れた地域だったので、小学生も悪さをしていた。

ある日、子どもたちが集団万引きをした。

そのメンバーの中に私もいた。

発覚した後、母からは叱られたのではなく、泣かれてしまった。

母は強い人だったので、泣くなどということはなかった。
子供心にも母親を泣かせてはいけないと、深く心に刻まれた。
教育というのはこういうことだと、今は思う。

悪童たちが、その後どうなっていったかも子供の頃(1の中で書いたが、不良のまま暴力団に入ったものも多かっただろう。

この時の気持ちがなければ、私も仲間とともに悪の道に走っていたと思う。能力があっただけに、酷い悪人になっていた可能性もある。

この時の同級生が今どのくらい生き残っているかは知らないが、子供の頃からシンナー等で体を痛めつけていたので、大半は死んでいると思う。

やがて母は洋品店でパートで働くようになる。父が家計を顧みなかった分、母が補っていたのだ。

家庭のことができる程度の時間だが、稼ぎを増やす必要があったのだ。子どもたちが大きくなったころには、店長になっていた。

責任感も強く、仕事もできたのだと思う。

母は先進的な祖母の影響もあったのだろう、私がやりたい事をやっても、反対せず、黙ってやらせてくれた。

高校も行きたいところを優先させてくれ、滑り止めの私立まで受けさせてくれた。

18歳で免許を取ったときも、支援してくれたし、浪人したときも予備校に行かせてもらった。

大学に進学せずに就職を決めたときも、何も言われなかったし、再度大学に行くときも、黙って支援してくれた。

母無くして、今の自分は無かったと言っていいだろう。

自由に自分探しをさせてもらったおかげで、自信を積み上げて、ここに書けるような、面白い人生が送れている。

母は、60歳過ぎまで洋品店に勤め、引退した。

その後は、旅行をしたり近所の集まりに行ったり、楽しんでいた。
私と二人で、トルコ、エジプト旅行に行ったこともあった。

しかし父と長い時間を過ごすのはストレスだったようだ。

それが原因かどうかは分からないが、その後、アルツハイマーを発症し、自宅療養の後、養護施設に入っている。
今でも体は元気な方だが、認知症は進んでいる。

認知症の初期段階では、家中に食べ物を 貯め込んだりした。食べることに対する不安感の表れかと思うと、悲しかった。
定期的に実家に行っては、涙を流しながら集められた弁当などをゴミ袋に捨てていった。もう食べられない弁当を集めていると、「子供に待っていっていいのよ」などと言ったりした。まだらな記憶の中でも子供への愛情を忘れない母であった。
肉体はあるものの精神は死んでしまったかと思うと、顔を合わせるたびに涙が止まらなかった。

まだまだ人生を楽しんで欲しかったが、痴呆症になることで、いろいろな現実に対する不安から逃れられたかと思うと、それもいいかもしれないと思ったりした。


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