家族というもの、を振り返ってみる(2

大学で精神分析を少し学んだが、いわゆるエディプス・コンプレックスは、根深いものがある。

父親との葛藤は、乗り越えるべきもののようだが、必要悪のような気もする。

一生引きずってしまって、逃れられない人もいるのだから。

だがしかしコンプレックスの出所は精神ではなく、本能の結果だと最近は思っている。

特にオスは、まず自分の優位を確保したい欲求を持っている。だから相手がパートナーであろうが子供であろうが、その欲求を満たすためにはお構いなしだ。
特に本能の強いタイプほど、自分のオスとして地位を確保するために一生を費やしてしまう。

その行動が人間としての精神に基づいていると考えると、誰もが納得いかないことになる。

父親の行動を改めてオスの行動だと思って見てみると、納得がいく。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は、幼い頃からどちらかと言うと自我の強い子供だったので、従順ということもなかったのだろう。

その上、長子だっだからだろうか、父親の戸惑いを直接ぶつけられていたような気がする。

父の自己中心的な性格は兄弟みんなにも影響を与えていたと思う。

弟は高校時代には不良になって、夜の街に遊びに行ったりしていたし、妹も十代で結婚したがり、二十歳そこそこで結婚した。たぶん早く家を出たかったのだと思う。

自分も子供の頃のあり方は人生を決めるのか(3 で書いたように早く自立したかった。

各々が自立心を持ったことはプラスに働いたと考えていいのだろう。

さらに父について言えば、悪い側面だけでなく良い側面もあった。

釣り好きが昂じて、毎週末に釣りに出かけていたが、家族も連れて行っていたのだ。

夜中にハッチバックの車の荷台に布団を敷いて、子どもたちは寝ながら移動した。
朝になると湖や川辺に車が停めてあって、父は日がな一日釣りをしているのだ。

弟は釣りが好きになったらしく一緒に釣りをしていたが、自分はあまり好きになれず、どちらかと言うと付近を探検をすることが多かった。

河原を裸足で歩き、棒を一本持って、ヤブの中や川の中をあちこち探索して歩くのだ。

この時期に自分の足で歩き、手で探る手法で好奇心を満たすことを覚えたといえる。

そして今でも棒一本持って、世の中を手探りで歩いているようなものだと思う。自らの体験でものを図るという、身についてしまった手法は変えられない。
子供の頃に自然体験で得たことが、その後の探究心や身体能力に大きな影響を与えていることは間違いない。


その後は、父の釣りは磯釣りに変わり、磯のある伊豆や真鶴に行ったり、時には伊豆七島にも渡った。

弟はこの頃にはグレ始めていたし、子どもたちが大きくなると学校も忙しくなるので、あまり家族では出かけなくなった。

たまに自分一人が一緒に島などにも連れて行かれた。

磯釣りというのは、思ったほど釣果が上がらない釣りなので、この時期は短かったと思う。

父は多趣味で、カメラに凝っていた時期もあった。子供の頃にカメラを分解してしまい、ひどく叱られた覚えがある。
また狭い家の庭に大きな水槽を置いて、鯉を飼っていたこともあった。
大きな錦鯉などが10匹ほどいて、水槽の上から指を突っ込むと、パクパクと吸い付かれた思い出もある。
ある時期は植木に凝って、盆栽をやり、皐月の種類を沢山持っていたりした。これも家の周りのブロック塀の上まで所狭しと並べていた。
それぞれの趣味は、いつの間にか止めていて、最終的には釣り一本になった。

最後は船釣りに移った。

船釣りは、船頭が魚のいる場所に連れて行ってくれるので、もちろんよく釣れる。

その中でも、父がハマったのは「釣り大会」だった。

凝り性な父は、釣り大会で腕を上げて、度々優勝するようになった。好きな釣りで、なおかつ他の人からも評価されることが、彼の欲求を満たしたのだろうと思う。

その上バブルな頃だったので,賞品も良かった。
ちょっとした家電などが賞品に並び、優勝すると海外旅行がついくることもあった。

そのうちスポーツ新聞の釣り欄などに記事まで書くようになったが、あくまで趣味の域を出なかった。

とうとう和竿作りまでするのだが、玄人はだしでも、やはり趣味に域を出ない結果になった。

なぜプロにならないのか、理解することがなかなかできなかったが、今ならこう考えることができる。

彼は、実は評価が怖かったのだ。

父は高校の頃から文学青年だったらしく、井伏鱒二が主催する文芸誌に小説が載ったのを見せてもらったこともあった。

卒論は、谷崎潤一郎についてだっだようだし、小説家になりたかったようで、晩年まで小説も書いていた。

父は小説家になれなかったのも貧乏のせいにしていたが、実はどこかで植え付けられた劣等感が原因だったと思う。

常に自分に自信がないのだ。

だから評価されることが怖くて、自分の本質に関わることは表に出せなかったのだろう。

ものになるまでやり続ける前に、出来ない理由を、経済的、時間的な制限があったと言い訳を考え、止めてしまうのだ。

私も子供の頃に父に植え付けられた劣等感を覆すのに、様々なことを経験しなければならなかったし、時間もかかった。

いまでも、もちろん心の奥では劣等感の疼きがある。

しかしそれを行動することで覆してきた。
行動こそが、解決の鍵だと思う。

子供にとって、親は一番の影響を与える存在だ。
それだけに乗り越えることは大変だ。

その父も去年亡くなった。
自分が思っていたようなものが残せなかった姿を見ると、かわいそうでもあり、哀れでもある。

果たして自分は、何を残すのか。残り少ない人生を悔いのないように生きたいと改めて思う。

次回は母を中心に考えてみたいと思う。

続きます。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?