旅と人生の記録、まとめてみた(2

さすがに57年も生きていると、長くなる。

自分で読んでも、改めて旅をしているように感じる。

続きは30歳から、

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30歳(1992)の時、友人とガラス工芸の教室と美術サロンを開く事業を企画し、渋谷に物件も確保した。

いろいろ調査した結果、マーケティング的にも行けそうだった。
借りた物件の所有者も美術に関心があり、同じビル内にアート系の専門学校もあって好条件だった。
ショウルームの契約も済んで、すぐに始める予定だった。
ところがオープン直前に、出資者が躊躇しはじめた。
うまく調整がつかず、出資が得られずに、営業を始める前に物別れになってしまった。

結局、何一つ事業は行われなかった。

すべての処理が済んで、傷心?で海外旅行に行くことにした。

表向きは、美術のことを知るための美術館巡りだった。

まずはアメリカ、ロサンゼルスに渡り、主な美術館を回るのを主眼とした。
予算もなかったので、バックパッカーとして各地をグレイハウンドバスで巡った。1ヶ月のフリーチケットが格安だった。
広いアメリカだが、結構くまなく回れたと思う。

アメリカ大陸を横断し、ニューヨークに着いた。
美術館も良かったが、アメリカの多様性に圧倒された毎日だった。

泊まっていたユースホステルで、直前になると投げ売りになる格安航空券があることを知った。当時からこういったシステムは、アメリカが進んでいた。今思えば、Uber、Airbnbといった合理的なシステムの萌芽はすでにあったのだと思う。

格安チケットは、約1万円でヨーロッパのどこかへ飛べるというものだった。要は、席に空きあったら空気を運ぶよりも、少しでもお金に変えたほうがいいという考えだと思う。それゆえに行く先はざっくりヨーロッパとしか指定できないことになっていた。
それでも希望が通って、パリに渡ることができた。

事前に旅行会社でユーレイルパスを買っていたので、ヨーロッパでは鉄道が乗り放題だった。
2ヶ月間有効で年齢が28歳までは2等車のみのユースパスがあるが、それ以上は1等車も乗れるユース用ではないパスだった。
ユーレイルパスは、外国人専用のヨーロッパの鉄道網で使えるフリーパスだ。高速鉄道(日本で言う新幹線)も乗れるお得なチケットだ。
ただ1等車もたまに使ったが、ほとんど2等車を利用した。2等車のほうが、旅らしい風情が感じられたからだ。
コンパートメントの夜行列車などを、宿代わりにもした。

オーストリアでパスの期限が切れたので、物価の安い東ヨーロッパに入った。
ベルリンの壁(1961,8月にできた)が崩壊した1989年11月9日から3年弱しか経っていなかったので、まだ東側は共産圏の雰囲気が色濃く残っていた。
チェコスロバキアは、チェコとスロバキアに別れたばかりで、スロバキアは夜行列車で国の端から端まで乗っても700円程度だった。

東側ではグランドキャニオンで逢ったポーランド人を訪ねて行くことも一つの目的だった。
彼とはグランドキャニオンでの観光を一緒にし、その後の自己紹介で年齢を確認したところ、なんと年齢だけではなく生年月日までが一緒だったという奇遇だった。
職業を聞くと、若いのに地方の市の市長ということであった。

彼の住む町に着くと公用車で運転手まで付けてくれた。さすが市長だった。行きたいところは?と聞かれたので、街から近いアウシュビッツ(カトビチェ)と言うと、なんでそんなところへ行きたいのか?と言う感じが意外だった。

訪問すると重苦しい雰囲気が感慨深かったが、まだ観光客などは全然いなかった時代。

その後、ワルシャワに滞在しながらシベリア鉄道で帰るために、旅行会社などに当たりながら模索した。

しかし、市内でスリに遭ってカメラなどを盗られたこともあって断念。

ベルリンから飛行機で帰国した。

帰国してからは、旅先で知り合った日本全国の友人たちを集めて、東京で懇親会などをしたりしていた。
仕事も決まった仕事をせず、アルバイトなどをしながら、異業種交流会などに出ていた。

1993年 海外経験を買われて、某印刷会社社長がバイク(ハーレダビットソン)でアメリカを横断する(結果は途中まで)のに同行することになった。
ニューヨークからデンバーまで自動車で並走したが、一緒に行くことになった機械メーカーの人間がほとんど運転した。

社長は取引のある機械メーカーに行ったり、営業も兼ねていたようだ。
終着地のデンバーでは、マウント・エヴァンス 標高 4,348 mへ一人で車で登ったので、ロッキー山脈にも少しだけ足を踏み入れた。

帰国後も、特に決まった仕事はしていなかったが、異業種交流会で知り合った人から、環境関連のイベントの仕切りを任された。それをきっかけに、環境系のイベントプランナーとして、地方自治体や官庁、放送局などの仕事で、写真展などのイベントを企画したり運営する仕事をするようになった。

代々木に事務所を構えたのもこのころだった。

事務所と言っても住んいるようなもので、都内は自転車で移動、新宿高島屋は歩いて5分、行きつけの本屋は紀伊国屋書店と都会生活ど真ん中だった。

続きます。。

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シーサン

埋没してしまいがちな記憶を、記録にしてみようとはじめたnote
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