ゾーイー 前編

p57(ゾーイー)
彼女がいくたびか鼻をかむ15分ないし20分のシーンがこの映画にはあるのですが、そこのところをなんとかしたらよかったのではないかと彼女は申すのであるけれども「なんとかしたら」というのはつまり、「カットしたら」という意味であろう。ひとが鼻をかんでいるところをいつまでも見せられるのは、よい気持ちのものではないと申すのである。

p 174(ゾーイー)
最初は断片的に、ついでは全面的に、彼の注意は、いま5階下の向かい側の路上で、作者や演出家やプロデューサーによって妨害されることなしに演じられている、一場の高貴な情景に惹かれていった。私立女学校の前に、かなり大きな楓の木が一本立っている-この幸運に恵まれた歩道の側に立ち並んだ4、5本の街路樹のうちの一つであった-が、そのときちょうど、7、8歳の女の子がその木の後ろに隠れたのだ。女の子はネーヴィ・ブルーの両前の上着を着て、アルルのヴァン・ゴッホの部屋のベッドにかかっている毛布によく似た色調の赤いタモシャンター(訳注スコットランド風のベレー)をかぶっている。好都合なゾーイーの位置から見ると、彼女のタモシャンターは、実際、絵具を落としたように見えなくもないのだ。女の子から15フィートばかり離れた所では、彼女の犬が-緑の革の首輪と紐をつけたダックスフントだが-革紐を長く後ろにひきずったまま、主人を見つけようとして、においを嗅ぎながら、やっきとなってその辺をくるくる駆け回っている。別離の苦悩が彼には耐え難いのだ。そのうちにとうとう彼も主人のにおいを突きとめたけれど、そこへいくまでの時間が短きに失せず、長きにも失しない。再開の喜びはどちらにとっても大きかった。ダックスフントが、かわいい叫び声を上げ、続いて嬉しさに身をよじりながら頭を下げ下げにじり寄ってゆくと、女主人は、彼に向かって何事かを大声に叫びながら、木のまわりにはりめぐらされた針金の柵を急いで跨いでいって、彼を抱き上げた。彼女は彼らだけにしか通じない特別な言葉で数々の賛辞を与えてから、やがて彼を地面に下ろし、紐を拾い上げると二人は嬉々として、五番街とセントラル・パークがある西の方へ歩いていって見えなくなった。反射的にゾーイは窓のガラスとガラスを仕切っている横木に手をかけた。窓を開けて身を乗り出して、小さくなっていく二人の姿を見送ろうと思ったのかもしれない。だが、それが葉巻の方の手だったために、ちょっとためらっているうちに機会は過ぎてしまった。
「チキショウ、この世にはきれいなものもありやがるわい」彼は言った「本当きれいなものだ。脱線するのは、ぼくたちがみんなバカだからさ。いつも、いつも、すべてを薄汚ないエゴのせいにする」ちょうどそのとき、彼の背後で、フラニーが虚心坦懐に鼻をかんだ。そんなに形がよくて華奢なつくりの機関にしては、思いがけなく大きな音であった。ちょっとたしなめるような気配を漂わせて、ゾーイは彼女を振り返った。
クリーネックスをいくつにも畳んでいたフラニーは、ふとゾーイーを見ると「あら、ごめんなさい」と、言った「鼻をかんじゃいけないの?」
「君の話はすんだのか?」
「ええ、すんだわ!ああ、なんていう家だろう。鼻をかむにも命がけだ」
ゾーイーはまた窓の方へ視線を戻した。そして校舎のコンクリートブロックが織りなしている模様を目で追いながら、しばらく葉巻を吸っていたが「二年ほど前にバディがなかなか含蓄のある話を聞かせてくれたことがあるよ。はたして正確に覚えてるかなあ」そう言いさしたまま言いよどんだ。で、まだクリーネックスをいじくっていたフラニーも、彼の方に目を向けた。ゾーイーが何か思い出そうとして苦労してるように見えるときには、その様子がきまって彼のきょうだい全員の興味の対象になったものである。彼らにとって、それは娯楽的価値さえ持っていた。彼が思い出せずにいるようなのは、たいていの場合、見せかけだけで、彼が「これは神童」のレギュラー解答者として過ごした五年間、これは明らかに彼の人間形成期だったわけだが、そのころ彼は、心からの興味を持って読んだり聞いたりしたものならほとんど何でも、即座に、そしてたいていは言葉通りに、引用してみせることができる、いささかバカげた能力を持っていたけれど、それをひけらかすよりはむしろ、同じ番組に出演している他の子供たちがやるように、眉間に皺を寄せながら時をかせいでいるような様子を見せる、そういう習慣が身についたのが、そのまま今に持ち越しているのである。今も彼の眉間には皺が寄っていた。だが、彼はこんな場合のいつもの例よりはいささか早目に口を開いた。昔馴染みの共同解答者フラニーに、自分の芝居を見抜かれたことを察知した、とでもいった格好である。「バディが言うにはだな、人間、咽喉を切られて丘の麓に倒れていて、静かに血が流れて死んでゆくというときにでも、きれいな娘や婆さんが、頭の上にきれいな壺をきちんとのせて通りかかったら、肩肘をついて身を起こして、その壺が無事に丘を越えてゆくのを見られるようでなくちゃだめだ、と、こう言うんだ」彼はこの話を繰り返し考えていたが、そのうちに「ふん」と鼻を鳴らして「あいつがそれをやるところを見たいもんだよ、チキショウメ」と、言った。そして葉巻を一口吸った。

p113《笑い男》
いつもの席に着くと団長はハンカチを取り出して、片方ずつ順々に洟をかんだ。その様子を私たちは、まじまじと、見世物でも見るような興味さえ混えて見守っていた。洟をかみ終ると団長は、ハンカチをきちんと四つに畳んで、もとのポケットにしまった。それから「笑い男」の次の一コマを語って聞かせたのである。それは最初から最後までで、せいぜい五分くらいしかかからなかった。

p281 《テディ》
彼は片方の腰を浮かせて、薄黒くなったのを丸めたなんとも見るに耐えないハンケチを取り出すと、洟をかんだ「物がどこかでおしまいになるように見えるわけは、ほとんどに人がそういうものの見方しか知らないからなんだ。しかし、だからといって本当に物がそこでおしまいになることにはならない」テディはハンケチをしまうとニコルソンの顔を見て「ちょっとあなた、片方の腕を上げてみてくれない?」と、言った。

p60 (ゾーイー)
一九五五年の十月、月曜日の朝十時三十分、二十五歳の青年ゾーイー・グラースは、なみなみとお湯を湛えた浴槽につかって、四年前の古手紙を読んでいた。黄色い薄葉紙の何枚もにわたってタイプした、いつ終わるとも知れないような手紙であって、二つの島みたいな膝頭に立てかけておくのが容易でない。

p30 (フラニー)
涙に濡れてはいるが、まったく無表情な、ほとんどうつろとも言いたい顔をして、彼女は床に置いたハンドバックを取り上げると、口を開けて、中から例の小さな若草色の布製の本を取り出した。彼女はそれを、膝の上、というよりむしろ膝頭の上にのせて眺めやった。見つめたと言ってもよい。そこが、その小さな若草色の布製の本をのせるにはいちばんふさわしいというのでもあろうか。

p60 、61(ゾーイー)
湯の中で手紙を読んでいる−というより、読み返している−時間が長くなるにつれて、手の甲で額と上唇を拭う回数が多くなり、次第にその動作が無意識ではなくなっていったのだから

p46 (フラニー)
「とにかくね」と、彼女はまた話だした「スターレッツがその巡礼に言うの、もしこの祈りを繰り返し繰り返し唱えていれば−初めは唇を動かしているだけでいいんですって−そのうち遂にはどうなるかというと、その祈りが自動性を持つようになるっていうの。だから、しばらくするうちに、何かが起こるんだな。何だかわたしにはわかんないけど、何かが起こる。そして、その言葉がその人の心臓の鼓動と一体となる。そうなれば、本当に耐えることなく祈ることになる。それが、その人の物の見方全体に、大きな、神秘的な影響を与える。そこが、肝心かなめのところだと思うんだな、だいたいにおいて。つまり全般的な物の見方を純粋にするためにこれをやれば、すべての物がどうなっているのか、まったく新しい観念が得られると思うんだ」

p47 (フラニー)
「でも、大事な点はね−これがすばらしいんだ−これをやり始めた当座は、自分がやってることをべつに信じてやる必要はない。つまり、そんなことをやるのにどんなに抵抗を感じながらやるにしても、そんなことは全然構わないってわけ。誰をも何をも侮辱することにはならないのよ。言いかえると、最初始めたときには、それを信じろなんて、誰もこれっぽっちも要求しないんだ。自分で唱えてることについて考える必要もないなんて、スターレッツは言うのよ。最初に必要なのは量だけ。やがて、そのうちに、量がひとりでに質になる。自分だけの力か何かで。スターレッツの言うところによると、どんな神様の名前にも−仮にも名前なら、どんな名前にだって−それぞれ、みんなこの独特の自動的な力があるっていうのよ。そして、いったんこちらで唱え始めれば、あとは自動的に動きだすっていうの」

p48 (フラニー)
「実を言うとね、これはきちんと筋の通る話なのよ」フラニーは言った「だって、仏教の念仏宗では『ナム・アミ・ダブツ』って、繰り返し繰り返し唱えるけど−これは『仏陀はほむべきかな』とかなんとか、そんな意味でしょう-それでも、おんなじことが起こるんだ。まったく同じ−」

p130、131 (ゾーイー)
「つまり、この考えによるとだな、祈りは、それ自体だけの力によって、口先や頭脳から、やがてのことに、心の臓にまで到達する。そうして、心臓の鼓動といっしょに動く自動的な機能と化する、と、こういうんだ。それからしばらくして、その祈りが心臓の鼓動と一体化を遂げた暁には、その人はいわゆる万象の本体に参入することになるという。どっちの本にも、これがこういう形で出てくるわけじゃなくて、東洋的筆法で語られるんだけど、肉体には、チャクラという七つの敏感な中心があって、中でいちばん心臓と密接な関係にあるのが、アナハータといって、ものすごく鋭敏強力だというんだな。こいつが活動させられると、今度はこいつがアジナという、眉と眉との間にあるもう一つの中心を活動させる−これはつまり、松果腺なんだな。いやむしろ松果腺のまわりの冷気というか−次がいよいよ、神秘論者のいわゆる『第三の眼』の開眼と来るわけさ。これはなにも新しいことじゃないんだけどね。というのは、つまり、この巡礼とその仲間たちをもって嚆矢とするわけじゃないってこと。インドでは、ジャパムといって、何世紀になるか分からぬほど前から知られてたことなんだ。ジャパムというのは、人間が神につけた名前を、どれでもいい、何度も繰り返すことなんだ。神につけた名前というより、神の化身−つまり権化だ、専門用語を使いたければ−神の権化を呼ぶ名称だ。これを長い間、規則的に、文字通り心の底から唱え続けていれば、いつか時満ちて必ずや応答があるというんだな。応答というのは正確じゃない。反応だ」

p291 《テディ》
「ぼくの身体はぼくが自分で育てたんだ。人が育ててくれたんじゃない。とすると、ぼくはその育て方を知っていたに違いない。少なくとも無意識的には。意識的な知識は、過去数十万年の間にいつしか失ってしまったんだろう。しかし、何らかの知識はまだ残ってるんだ、だって−明らかにぼくは−それを使ってるんだもの。…だが、その全体を−つまり意識的な知識を−取り戻すためには、ずいぶんと瞑想もし、頭の中のものを吐き出しもしなきゃなるまい。でも、その気になればできないことはない。思い切って開く自分を開け放せばいいんだ」

p218 (ハプワース)
ブーブーはこの頃「神さま」という言葉が信じられなくなったみたいだね。新しいお祈りにすれば、それが解決できるよ。「神さま」という言葉を使わなくちゃいけないという決まりはないんだ。それが「つまずきの石」だったら、使わなくていい。これからはこのお祈りにしよう。「わたしは子供です。いつものように、これから寝ます。『神さま』という言葉はいま、わたしの胸にささったとげです。この言葉をいつも使って、うやうやしく思い、おそらく心から大切に思っている人もいます。わたしの友達のロッタ・ダヴィラとマージョリー・ハーズバーグもそうです。わたしはふたりのことを、いやな、すごい嘘つきだと思っています。わたしは名前のない、あなたに呼びかけることにします。わたしの思うあなたには形がなくて、特に目立ったところもありません。そしていままでずっとやさしく、すてきで、わたしの運命を導いてくれました。わたしがこの人間の体を借りてすばらしい生を生きているときも、そうでないときも。どうか、わたしが眠っている間に、明日のための、間違いのない、理由のある教えをください。あなたの教えがどんなものか、わからなくてもかまいません。そのうちいろいろなことがわかってくると思います。でも、あなたの教えは喜んで、感謝して、しっかり守ります。いま、わたしは、あなたの教えがそのうち、効果と効能を発揮して、わたしを励まし、意志をかたく持つ助けになると考えています。でもそのためには、心を穏やかにして、心を空っぽにしておかなくてはならないそうです。なまいきなお兄ちゃんがそういってました。」しめくくりは「アーメン」でもいいし、ただ「おやすみなさい」でもいい。どちらでも好きな方を選べばいいし、自分の気持ちにぴったりするほうを選んでもいい。汽車の中でぼくが思いついたのは、これだけ。だけど、なるべく早く伝えようと頭の中にしまっておいたんだ。ただし、いやだったら、こんなお祈りはしなくていい!それから、自由に、好きなように、いいかえていいよ!もしこんなのがいやだと思ったら、さっさと忘れて平気だから。ぼくがうちに帰ったら、またほかのを考えてあげる!ぼくのいうことは絶対間違いないなんて、考えないように!ぼくは本当に、間違いばかりやってるんだから!

p241 (ハプワース)
とくに人間の折れた骨をいやしながらくっつける作業については熟読すると思う。だって、仮骨は信じられないくらいよくできていて、いつ始めて、いつ止めるかがちゃんとわかっている。それも骨折した人の脳からまったく指令を受けないのに。これもまた、奇妙な性質を持つ「母なる自然」のたまものだ。それにしても、いわせてもらうけど、ぼくはもうずっとまえから、「母なる自然」といういかがわしい言葉にうんざりしている。

p61(ゾーイー)
遅くならないうちに言わせてもらうけれど、いま話しているこのゾーイーについて、互いに複合したというか、重複しているというか、一つのものが二つに分裂したというか、とにかく一括すべき一件書類みたいな格好の二つの記事を、ここに挿入するのが至当であろう。

p251《テディ》
しかし、仕事を離れて休暇をとっているときの声は、単なる音量を楽しむときと、舞台もどきの静かで落ち着いた物言いを楽しむときと、この二つが交互に入れ替わるのが通例であった。

p224《ド・ドーミエ=スミスの青の時代》
二人の人物の衣服の乱れが写真のような克明さをもって描かれていて、実を言うと、この絵が持つ風刺的な意味よりもむしろそこに駆使されている職人的技術にわたしは感心した。

p156 (ハプワース)
ぼくは何よりも、自分の書き言葉と話し言葉の大きなギャップに死ぬほどうんざりしているって!二種類の言葉を持っているということは、すごく気持ちが悪くて、不安なんだ。

p61 (ゾーイー)
彼のことを描写する場合には、「モンテ・カルロのルーレットのテーブルで、人に抱かれながら死んでいった、ユダヤとアイルランドの血をひくモヒカン族の碧眼の斥候兵」のようだと書けと言う。

p87 (ゾーイー)
こうしたマンハッタン的色彩あざやかな地域にあって、グラース夫人は(反良俗的女性の見地からするとき)実に爽やかな目ざわりなのである。第一に、彼女は、およそアパートを出るなどということは、決して決してないような様子をしているのだ。かりに出ることがあるにしても、その時は黒っぽいショールをして、オコンネル・ストリートの方へでも行きそうな格好である。アイルランドとユダヤの血が半々にまじった彼女の息子の一人が、つまらぬ書類の書き違いかなんかから、英国警備隊に射殺されて、その死体を引き取りに行くといった、そんな場面にこそふさわしい様子なのだ。

p180 (愛らしき口もと目は緑)
白髪まじりの男はまた左側に目をやったが、今度は女ではなく、ずっと上の方である。女はいわばアイルランドの若い碧眼の警官といった感じで男を見守っている。

p192 《愛らしき口もと目は緑》
「肌白く薔薇色の頬。愛らしき口もと目は緑」全くどうも決まりの悪い話だけどさ 昔はこの詩を読むといつもあいつのことが思い浮かんだ。あいつの目は緑じゃない 海の貝殻みたいな目だよ、あいつは なのに、とにかくあいつのことが思い浮かぶんだ」

p61、62 (ゾーイー)
ゾーイーの顔が、完璧な美貌というに近いことは私も認める。そうだからして、れっきとした美術品の場合と同様で、臆面もなく麗々しい、たいていはうわつらだけの賛辞を招き易かったことも勿論である。けど、それはまた、数えきれない毎日の脅威-自動車事故だとか、鼻風邪だとか、朝飯前の嘘だとか-そのどの一つにぶつかっても、豊かに恵まれた彼の美貌は、1日のうちに、もしくは一瞬のうちに、そこなわれたりすさんだりした筈だということにもなるのではないだろうか。それに反して、飽くまで減りもいたみもしないままに、先ほどはっきり過ぎるほどはっきりと匂わせた通り、キーツのいわゆる「永遠の喜び」を与えてくれるものは、彼の顔全体に-とりわけその目に焼きつけられた正真正銘の才気である。この目に表れるエスプリは、しばしば道化役のつける仮面のように、人の心を捕え、時にはあれよりはるかに人の心を掻き乱すことも珍しくなかった。

p96 《笑い男》
知人たちは彼を避けた。ところが、奇妙なことに、山賊どもはこの笑い男を自分たちの本拠にそのままとどめておいたのである。-ただし、彼がその顔を、芥子の花びらで作った薄紅色の薄い仮面で包むという条件をつけてだが。その仮面は、山賊どもの目から、彼らの養子の顔を隠してくれただけではない。それはまた、彼の所在をわからせてくれるよすがともなった。つまり、その仮面のせいで、彼は阿片の匂いをふりまいて歩いたのだ。

p72 (ゾーイー)
シーモアが自殺したのは、三年前のちょうど今日だ。遺体を引き取りに僕がフロリダへ行ったとき、どんなことがあったか、君に話したっけか?五時間びっしり、僕は飛行機の上で薄馬鹿みたいに泣いてたんだ。通路の向かい側の人に見えないように、時々、ヴェールの具合を直しながらね−僕の方の席に隣客がなかったので助かったよ。着陸する五分前頃に、後ろの席で話している言葉が意識にとまったんだ。女の人でね、ボストンのお上品なバック・ベイの全部とインテリぶったハーヴァード・スクエアの大半を詰め込んだみたいな声だったな。「…で、その翌朝ですのよ、あなた、あの娘の若いきれいな身体から、1パイントも膿汁を取りましたの」僕はそれだけしか憶えていないけど、それから数分たって、飛行機から降りたときにだね、その愛するものを奪われた奥方が、ベルグドルフ・グッドマン仕立ての黒衣の姿で僕の方へ近づいてくるのを見て、僕は「的外れな表情」を浮かべてしまったんだな。にたにた笑っちまったんだよ。今日がまさにそういう感じなんだ。しかるべき理由なんか何もないのにさ今日の僕は、頭では否定しているくせに、感覚として、どこかここのすぐ近くで−この道の先のとっつきの家あたりかな−一人の優秀な詩人が死にかかっているという感じが実にはっきりとくるんだな。がまた同時にここのすぐ近くのどこかで、誰か若い女の人がその愛らしい肉体から1パイントの膿汁を取ってもらう華やかな光景も展開しているような気がして仕方がないんだよ。僕だって、悲嘆と歓喜の間を、永久に往復してるわけにはいかんじゃないか。

p30 (フラニー)
彼女は、しばらくの間、その凝縮した、胎児にも似た姿勢をどうにか保っていた−が、そのうちにとうとう頽れてしまった。そしてたっぷり五分間、彼女は泣いた。ヒステリックになった子供が、咽喉をひきつらせたてるような、半ば閉じた喉頭蓋を突き抜けるようにして息がとび出してこようとする、あの音を立てながら、悲嘆と懊悩の慟哭を抑えようともしなかった。それでいて、いよいよ泣きやんだときには、激しい感情の噴出のあとに普通なら続くはずの、刃物のような痛々しいしゃくり上げもなく、ただぱたりと泣きやんだ。なんだか、彼女の心の中でスイッチの切り替えみたいなものが瞬時にして行われて、彼女の肉体を一瞬のうちに鎮静する力が発揮されたといった感じだった。

p75 (ゾーイー)
僕は彼女にはきっとボーイ・フレンドがいっぱいいるに違いないと言った。すると彼女はまた同じように頷くんだよ。で、僕は、ボーイ・フレンドは何人かって訊いたんだ。彼女は指を二本差し出した。「二人!」と、僕は言ったね「そりゃまたずいぶんたくさんですねえ。その人たちのお名前は何ていうの、お嬢ちゃん」すると、彼女は、つんざくような声で言ったんだ「ボビー(男の子)とドロシー(女の子)ってね。」僕は羊の肉をひっつかむと一散に駆け出したね。しかし、この手紙を書かしたのは、まさにこの出来事なんだ

p9(大工よ、屋根の梁を高く上げよ)
秦の穆公が伯楽に言った「お前ももう歳をとった。お前の子供たちの中に、お前に代わって馬の目利きとして余の雇える者が、誰かおらぬか?」伯楽は答えた「良馬は体格と外観によって選ぶことができまするけれども、名馬は−埃も立てず足跡も残さぬ馬というものは、消えやすく、はかなく、微かな空気のように捕らえがたいものでございまする。わたしの倅どもは至らぬ者ばかりでございまして、良馬はこれを見せれば分かりまするけれども、名馬を見抜く力は持っておりませぬ。しかしながら、わたしには、九方皐と申す友人が一人ございまして、薪と野菜の呼び売りを生業といたしておりまするが、馬に関する事どもにおきましては、決してわたしに劣るものではございませぬ。願わくは、かの男を御引見下さいまするよう」
穆公はそのとおりにしたあげくに、馬を求めてくるようにと仰せられて、その男を急派したのである。三ヶ月の後、男は、馬が見つかった旨の報せを持って戻って来た。「その馬は目下、沙丘におりまする」と男は申し添えた。「どういう種類の馬か?」公は尋ねられた。「栗毛の牝馬でございまする」というのがその答えであった。しかしながら、それを連れに遣わされた者が見ると、馬は、なんと、漆黒の雄馬ではないか!いたく興を損じられた公は、伯楽を呼び寄せて「余が馬を探して参れと命じたお前の友人は、とんだ失態を演じおったぞ。馬の毛色はおろか、牝雄の別すらもわきまえぬ男ではないか!あれでそもそも馬の何が分かると申すのだ」伯楽は一つ大きく満足の吐息をついた。「あの男はもうそこまでも至りましたか!」彼は声を弾ませて言った。「はてさて、そこまで行けばわたしを一万人寄せただけの値打ちがございます。もはやわたしの遠く及ぶところではございませぬ。皐の目に映っているのは魂の姿でございまする。肝心かなめのものを掴むために、些細なありふれたことは忘れているのでございます。内面の特質に意を注ぐのあまり、外見の特徴を見失っているのでございます。見たいものを見、見たくないものは見ない。見なければならないものを見て、見るに及ばぬものを無視するのでございます。皐は、馬以上のものを見分けることができまするほどに、それほどに冴えた馬の目利きなのでございまする」
いよいよその馬が到着してみると、なるほど天下の名馬であることが分った。

p30 、31 (バナナフィッシュにうってつけの日)
「いま、一匹見えたわよ」と、言った。
「見えたって、何が?」
「バナナフィッシュ」
「えっ、まさか!」と、青年は言った「そいつはバナナを口に加えてた?」
「ええ、6本」とシビル。
青年は、浮袋からはみ出て端から垂れてるシビルの濡れた足の片方をいきなり持ち上げると、その土踏まずのとこにキスした。
「こら!」足の持ち主は振り向いて言った。
「そっちこそ、こらだ!さあ、戻ろう。もうたくさんだろう?」
「たくさんじゃない!」
「お気の毒さま」と、彼は言った。

p45〜48 《コネティカットのひょこひょこおじさん》
「ジミー・ジメリーノ」「あら、そう!すてきなお名前ね。で、何処にいるの、ジミーは?教えてちょうだいよ」「ここにいる」「ここのどこなの?」「そうか、わかった。ジミーは架空の男の子なのね。すてきだわ。」「あんたはそう思うかもしれないけれどさ。あたしは一日中これをやられるのよ。ジミーは食事もこの子といっしょにするし、お風呂も一緒なら、寝るのも一緒なの。寝返り打つ拍子にジミーに痛い目をさしちゃいけないからって、この子ったら、ベッドの端っこに寝てるのよ」「でも、どっからそんな名前を思いついたのかな?」「ジミー・ジメリーノ?知るもんですか」「どっか近所の男の子からじゃないかしら?」「近所に男の子はいないのよ。およそ子供ってものがいないんだ。みんなは陰であたしのことを<実りのエロイーズ>ってー」

p55《コネティカットのひょこひょこおじさん》
あんた、ウォルト(シーモア)が死んだってこともルーには言わないつもり?」

p58 《コネティカットのひょこひょこおじさん》
両膝をつきテーブルの下をのぞいて煙草を探しながら、メアリ・ジェーンは言った「ねえ、ジミーどうなったか知ってる?」
「知るもんか。そっちのあんよ。そっちよ」
「車に轢かれたんだって。傷ましいじゃない?」
「スキッパーがね、骨くわえてたの」ラモーナがエロイーズに言った。
「ジミーに何があったの?」と、エロイーズは訊いた。
「車に轢かれて死んじゃったの。スキッパーがね、骨くわえてたでしょ、そしたらジミーがね、どうしても-」

p62 (ゾーイー)
「あんた、ジミー・ジメリーノは車に轢かれて死んでしまったって言ったでしょ」
「なあに?」
「とぼけたってだめ。どうしてこんな端っこに寝るの?」
「だって」
「だってどうしたの?ラモーナ、ママはもういやですからね」
「だって、ミッキーが痛くすると困るんだもん」
「誰がですって?」
「ミッキーよ」ラモーナは鼻をこすりながらそう言った「ミッキー・ミケラーノ」

p 174(ゾーイー)
最初は断片的に、ついでは全面的に、彼の注意は、いま5階下の向かい側の路上で、作者や演出家やプロデューサーによって妨害されることなしに演じられている、一場の高貴な情景に惹かれていった。私立女学校の前に、かなり大きな楓の木が一本立っている-この幸運に恵まれた歩道の側に立ち並んだ4、5本の街路樹のうちの一つであった-が、そのときちょうど、7、8歳の女の子がその木の後ろに隠れたのだ。女の子はネーヴィ・ブルーの両前の上着を着て、アルルのヴァン・ゴッホの部屋のベッドにかかっている毛布によく似た色調の赤いタモシャンター(訳注スコットランド風のベレー)をかぶっている。好都合なゾーイーの位置から見ると、彼女のタモシャンターは、実際、絵具を落としたように見えなくもないのだ。女の子から15フィートばかり離れた所では、彼女の犬が-緑の革の首輪と紐をつけたダックスフントだが-革紐を長く後ろにひきずったまま、主人を見つけようとして、においを嗅ぎながら、やっきとなってその辺をくるくる駆け回っている。別離の苦悩が彼には耐え難いのだ。そのうちにとうとう彼も主人のにおいを突きとめたけれど、そこへいくまでの時間が短きに失せず、長きにも失しない。再開の喜びはどちらにとっても大きかった。ダックスフントが、かわいい叫び声を上げ、続いて嬉しさに身をよじりながら頭を下げ下げにじり寄ってゆくと、女主人は、彼に向かって何事かを大声に叫びながら、木のまわりにはりめぐらされた針金の柵を急いで跨いでいって、彼を抱き上げた。彼女は彼らだけにしか通じない特別な言葉で数々の賛辞を与えてから、やがて彼を地面に下ろし、紐を拾い上げると二人は嬉々として、五番街とセントラル・パークがある西の方へ歩いていって見えなくなった。反射的にゾーイは窓のガラスとガラスを仕切っている横木に手をかけた。窓を開けて身を乗り出して、小さくなっていく二人の姿を見送ろうと思ったのかもしれない。だが、それが葉巻の方の手だったために、ちょっとためらっているうちに機会は過ぎてしまった。
「チキショウ、この世にはきれいなものもありやがるわい」彼は言った

p219、220 (ゾーイー)
「葉巻は安定剤なんだよ、カワイコちゃん。安定剤以外の何物でもないんだ。もしも葉巻につかまらなければ、あいつ、足が地面から離れてしまう。ぼくたちはわれらがゾーイーに2度と会えなくなっちゃうぜ」
グラース家には、経験を積んだ言葉の曲芸飛行家が何人もいたけど、今のこういう科白を電話での話の中にうまく持ち込む腕前を持っているのはおそらくゾーイーだけだったろう。少なくとも筆者はそんなふうに思うが、フラニーもそう感じたのかもしれない。とにかく、電話の相手がゾーイーであることを彼女は突然悟ったのである。彼女はベッドの縁からおもむろに腰を上げると「わかったわ、ゾーイー」と、言った。「わかったわよ」
少し間があって−「なんだって?」
「わかったわ、ゾーイーって言ったの」
「ゾーイー?どういうことだい?……フラニー?きみ、そこにいる?」
「ええ、いるわよ。もうよしてよ、お願いだから。あなただってこと、分かってるのよ」
「一体きみは何のことを喋ってるんだい、カワイコちゃん。何の話かね?ゾーイーって誰のことだ?」
「ゾーイー・グラースのことよ」フラニーは言った

p75 (ゾーイー)
それと、それからシーモアが自殺したホテルの部屋で僕が見つけた俳句調の詩だな。メモシートに鉛筆で書いてあったんだ。「機上の娘 人形の首めぐらして われを見せ」

※ここもシーモア序章か大工にあったような気がするけど見つからないんで後に保留

p76、77 (ゾーイー)
きみとフラニーがどちらも字が読めるようになった頃には、シーモアも僕も、もう大人だった-シーモアなんかとうに大学を出てたくらいだからな。あの年輩だから、僕たちには、自分の愛読する古典を君たち二人に押し付けようなんて情熱は本当はなかったんだ-とにかく、双子の大将やブーブーの時のような熱量を持ってやったわけじゃなかったよ。学者に生まれついたような人間を、いつまでも無知のままで置こうったって、それは無理だってことは知っていた。心の底では僕たちも、しんからそうしたいと思ってたわけじゃなかった、と僕は思うんだが、しかし、神童や学校時代の物知り博士が長じて研究室(実は娯楽室)の顔になるという例が、統計的に不安、というより脅威だったからな。けど、それよりずっと重要なことは、あの頃すでにシーモアが、いかなる名による教育でも、知識の追求ではなくして、禅にいうところの「無心」の追求から始めても、やはりかぐわしい芳香を放つ、いやむしろその方が遥かにかぐわしい芳香を放つであろうという信念を持ち始めていたことだ(僕もまた、兄貴に賛成だったんだよ、自分に分かる範囲でだけどさ)。スズキ博士がどっかで言ってるよ−純粋意識の状態−サトリの境地−に入るということは、神が「光あれ」と言う前の、その神と合一することだって、シーモアもおれも、この光を、君とフラニーから、(少なくともでき得る限り)遠ざけておいた方がよろしいと考えたんだ。その他、より低次な、より当世風な光の根源の数々−芸術、化学、古典、語学−これらすべてをだな。君たち二人が、すべての光の根源を会得した境地というものを、少なくとも想定できるようになるまではさ。この境地のことを、一部もしくは全部知った人々−聖者、阿羅漢、菩薩、生前解脱者−こういった人たちについておれたちの知っている限りのことを(というのは、おれたちにだって「限界」があるからな)言うだけでも言ってやったら、これはすばらしく建設的なことではないかと考えたんだ。つまり、君たちが、ジョージ・ワシントンと桜の木とか、「半島」の定義とか、文の分解説明法とかはもちろん、ブレイクもホイットマンも、いやホーマーやシェイクスピアについてすら、ほとんど、もしくは全然知らないうちに、イエスや釈迦や老子やシャンカラチャーリヤや慧能やスリ・ラーマクリシュナ等々の何たるかを、二人に知ってもらいたいと思ったんだ。とにかく、これがわれわれの名案なるものだったのさ。同時に、Sと僕とで家族ゼミナールを時間割通りに開催したあの何年間か、中でも形而上学の時間を、どれほど君が嫌がっていたか、僕にはわかっているということをいま僕は言おうとしているような気がする。

p118 (ゾーイー)
「そうだよ、ちがうんだよ、べシー」顔をあたりながらゾーイーは言った「あの小さな本は『巡礼の道は続く』っていう題名でね、『巡礼の道』っていうもう一つの小さい本の続編なんだけど、こっちのほうもあいつは終始持ち歩いてるんだ。両方ともあいつは、シーモアとバディが使ってたあの昔の部屋から持ち出したんだぜ。そこのシーモアの机の上にずっと昔からのっかってやがったんだ。チキショウメ」

p8、9 (大工よ、屋根の梁を高く上げよ)
ある夜、一番下の妹のフラニーが、当時一番上の兄のシーモアと私とで共同に使っていた部屋へ、ここならバイキンがいなそうだというわけで、寝台から何からそっくりそのまま、移されてきたことがある。私が十五、シーモアが十七歳であった。翌朝の二時頃になって、私は、この新米の同室の友の泣き声に目をさまされた。わめき立てるその声を聞きながら、中途半端な姿勢で、なおしばらく黙って横になっていると、数分して、隣のベットでシーモアが、もそもそと体を動かす音が(あるいは気配が)した。その頃、私たちは、非常の場合の用心に、二人の間のテーブルの上に懐中電灯を置いておいた。非常の場合は、私の記憶するかぎりでは、ついに一度もなかったけれど、シーモアはこの懐中電灯をつけると、ベッドから抜け出したのである。「哺乳瓶はストーブの上だって、ママが言ってたぜ」私は彼に言った。「少し前にぼくがもうやったよ。おなかが空いてんじゃないんだ」シーモアはそう言うと、暗い中を本棚のところまで歩いていって、懐中電灯をゆっくり動かしながら、書棚のあちこちを照らし出した。私はベッドの上に起き上がって「何をしようというんだ?」と言った。「彼女に何か読んでやろうと思ってさ」シーモアはそう言うと、書棚から一冊の本を抜き出した。「だって、まだ生後十ヶ月だぞ」と私は言った。「分かってるよ」シーモアは答えた「耳があるからな。聞こえるさ」
この夜シーモアが、懐中電灯の光でフラニーに読んでやったのは、彼が大好きな話で、道教のある説話であった。フラニーは、シーモアが読んでくれたのを覚えていると、今日でも断言して譲らない

p121 (ゾーイー)
「誰も何とも思っちゃいないだろうけどさ、でもおれはね、まずもって、『四つの誓願』(訳注禅宗でいう「四弘誓願」をさす)を口の中で唱えないことには、いまだに、めしの席にも着けないていたらくなんだ。フラニーだっておんなじにきまってるよ。あいつらがおれたちにあんな訓練を−」
「四つの何ですって?」グラース夫人が、用心しながら、口をはさんだ。ゾーイーは、洗面台の両側に手をついて、エナメル仕上げのキャビネットに目をあてながら、上半身を心持ち乗り出した。細っそりした身体つきの彼ではあったが、そのときは、洗面台を押して今にも床を破りかねない勢いに見えた。「四つの誓願だよ」そう言って彼は、いまいましげに目を閉じた。「『万物はいかに無数たりとも、我これを救うことを誓う(訳注 衆生無辺誓願度)。情念はいかに無尽たりとも、我これを消滅せしむることを誓う(訳注 煩憐無辺誓願断)。法門はいかに無辺たりとも、我これを極むることを誓う(訳注 法門無尽誓願知)。仏陀の真理はいかに無比たりとも、われこれに至ることを誓う(訳注 無上菩提誓願証)』おい、みんな。この通りおれもやれるぜ。監督さん、おれを出してくれよ」彼の目は、やはり、閉じたままで「チキショウ、おれはこいつを、十の歳から今日まで、毎日毎日、三度の食事のたびごとに小さな声で繰り返してきたんだ。こいつを言わないことには物が咽喉を通らないんだからな。一度ルサージといっしょに昼飯を食ったときに、こいつを省略してやろうとしたことがあったんだ。ところがオードブルの蛤を口にいれたとたんに、げーっときたね」

p289、290 《テディ》
「そうだな…何をやるか、あまりはっきりした考えはないけどね」とテディは言った
「一般に学校でまず最初に教えることからは始めない、これは確実に言えるな」彼は腕を組んで少しの間考えていたが「まず子供たちを全部集めて、みんなに瞑想の仕方を教えると思う。自分たちの単なる名前とかなんとか、そんなことじゃなくて、本当に自分は誰なのか、それを発見する方法を教えようとするだろうな。…いやそれよりも前に親やみんなから教え込まれたことを全部、頭の中からきれいさっぱりと吐き出させるね、きっと。たとえば、象は大きいと親から教えられていたとしても、そいつを吐き出させちまうんだ。象が大きいのは、何か他の物−犬とか女の人とか、そういったものと並べたときだけ言えることでね」テディはまたちょっと考えてから「ぼくなら象には長い鼻があるということだって教えないだろう。手もとに象がいたら、見せはするかもしれない。けどそのときでも、子供たちを象のとこにただ行かせるだけだな。象が子供たちのことを知らないように、子供たちにも象のことを知らせないでおくね。草とか、そのほかの物もおんなじさ。草が緑なんてことさえぼくは教えない。名は名称にすぎないからね。つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方−教えたそのご当人の見方−で見るようになっちまう−ほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ…よく分かんないけどね。ぼくはただ、両親やみんなが子供たちにかじらしたりんごを、小さなかけらの果てまでそっくり吐き出さしてやりたいんだよ」
「それではしかし、無知蒙昧なチビッコ世代ができてしまう危険がないかな?」
「どうして?無知蒙昧になんかならないよ。象だって無知蒙昧じゃないだろう。あるいは鳥だって。木だって」と、テディは言った「ある物がある態度をとる代わりにある形で存在するからと言って、それが無知蒙昧の理由にはならないさ」
「そうかな?」
「そうとも!」とテディは言った「それにだね、彼らがもし他のいろんなことを−名前だとか、色だとか、そういったことをさ−学びたいと思ったら、後になって彼らがもっと年をとってから、その気になれば、やれることだからね。でも最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中の見方じゃなくてね−そういうことさ、ぼくが言うのは」

p80 (ゾーイー)
Sの自殺を怒っているのは君だけだ。そしてそれを本当に許してるのも君だけだって、あいつはそう言ったんだ。君以外の僕たちは、みんな、外面では怒らず、内面では許していないんだってね。

p146 (ゾーイー)
「あの夢の中でわけがわかるのはたった一人、タッパー教授だけよ。つまり、あそこに出てきた人の中で、わたしを本当に嫌ってるということをわたしが自分で知ってるのは、タッパー教授だけなの」

p180 (ゾーイー)
「幸いにしてぼくには、それがきみの本心でないことが分かってるんだ。胸の奥では違うんだな。心の奥底では、僕たち二人とも、ここがこのお化け屋敷の中で神聖に浄められた唯一の場所だってことを承知してるんだ。ここはたまたまぼくがむかし兎を飼ってた場所でもあるぜ。あの兎たちは聖者だったよ、両方とも。実を言うと、あいつらだけが独身の兎で-」
「ああ、もうやめて!」苛立たしそうにフラニーが言った。

p80 (ゾーイー)
もうよそう。芝居をやれよ、ザガリ・マーティン・グラースどの、やりたいとき、やりたい所でさ。君はやらねばならぬと感じているんだから。しかし、全力をつくしてやることだ。君がもし、何でもいいから美しいものを舞台でやるならば、何とも名づけ難い、楽しくなるようなもの、演劇の技巧うんぬんを超越したものをだな。

p219、220 (ゾーイー)
「葉巻は安定剤なんだよ、カワイコちゃん。安定剤以外の何物でもないんだ。もしも葉巻につかまらなければ、あいつ、足が地面から離れてしまう。ぼくたちはわれらがゾーイーに2度と会えなくなっちゃうぜ」
グラース家には、経験を積んだ言葉の曲芸飛行家が何人もいたけど、今のこういう科白を電話での話の中にうまく持ち込む腕前を持っているのはおそらくゾーイーだけだったろう。少なくとも筆者はそんなふうに思うが、フラニーもそう感じたのかもしれない。とにかく、電話の相手がゾーイーであることを彼女は突然悟ったのである。彼女はベッドの縁からおもむろに腰を上げると「わかったわ、ゾーイー」と、言った。「わかったわよ」
少し間があって−「なんだって?」
「わかったわ、ゾーイーって言ったの」
「ゾーイー?どういうことだい?……フラニー?きみ、そこにいる?」
「ええ、いるわよ。もうよしてよ、お願いだから。あなただってこと、分かってるのよ」
「一体きみは何のことを喋ってるんだい、カワイコちゃん。何の話かね?ゾーイーって誰のことだ?」
「ゾーイー・グラースのことよ」フラニーは言った

p224 (ゾーイー)
「ぼくがどこにいようと、それに何の関係がある?サウス・ダコタ州のピエールだよ。僕の言うことを聴いてくれ、フラニー−ぼくが悪かった、あやまるから怒らんでくれ。そして僕の言うことを聴いてくれよ。あと一つか二つ、ごく簡単なことを言いたいだけだ。そしたらよすよ、それは約束する。しかし、ついでに聞くんだが、きみは知ってたかな、去年の夏、バディとぼくとできみの芝居を見に行ったんだぜ。何日か憶えてないけど、僕たちがきみの『西の国の人気者』を見たこと、知ってるかい?ものすごく暑い夜だった、それだけは間違いない。でも、ぼくたちがあそこに行ってたこと、きみ、知ってた?」
返事をしなければならないような感じである。フラニーは立ち上がったが、すぐまた腰を下ろした。それから灰皿を少し向こうへ押しやった。いかにもそれが邪魔だというふうに。
「いいえ、知らなかったわ」と、彼女は言った「誰も一言も−いいえ、わたし知らなかった」
「そうか、行ってたんだよ。ぼくたち、あそこに行ってたんだ。それからきみに言っとくけどね。あのときのきみはよかった。ぼくがいいって言うのは、口先だけじゃないからね。あのメチャメチャ舞台はきみのおかげでもったんだ。観客の中の陽に焼けた間抜けどもでもみんな、それは分かってたぜ。ところが聞くところによると、きみは芝居を永久にやめたいという−ぼくはいろんなことを聞いてるんだ、いろんなことを。シーズンが終わって帰ってきたとき、きみがやった大演説、あれも僕は憶えている、ああ、フラニー、ぼくは腹が立つよ。こんなこと言っちゃ悪いけど、きみには腹が立つよ。きみは俳優の世界は欲得ずくの奴らはダイコンだらけという、刮目すべき大発見をしたね。ぼくの憶えてるとこでは、きみは、結婚式場の案内者が天才ぞろいでないからといって参っちゃった誰かにそっくりだぜ。一体どうしちゃったんだよ、きみは?きみの頭はどこについてるんだ?きみの受けたのが畸形な教育だったら、せめてそれを使ったらいいじゃないか、使ったら。そりゃきみには、今から最後の審判の日まで『イエスの祈り』を唱えていることもできるだろう。しかし、信仰生活でたった一つ大事なのは『離れていること』だということが呑みこめなくては、一インチたりとも動くことができないんじゃないか。『離れていること』だよ、きみ、『離れていること』だけなんだ。欲望を絶つこと『一切の渇望からの離脱』だよ。本当のことを言うと、そもそも俳優というものを作るのは、この欲求ということだろう。どうしてきみはすでに自分で知ってることをぼくの口から言わせるんだい?きみは人生のどこかで−何かの化身を通じて、と言ってもいいよ−単なる俳優というだけでなく、優れた俳優になりたいという願望を持った。ところが今はそいつに閉口してる。自分の欲望を見捨てるわけにはいかないだろう。因果応報だよ、きみ、因果応報。きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいなら−神の女優になれよ、なりたいなら。これ以上きれいなことってあるかね?少なくともやってみることはできるよ、やりたければ−やってみていけないことは全然ないよ」

p37 (フラニー)
彼女はレーンを見やった。「役はいい役だったのよ。だからそんな顔をしてわたしを見ないで。そんなことじゃないのよ。もしも、そうね、わたしの尊敬する人が誰か−たとえば、兄たちでもいいわ−見に来ていて、わたしが自分の科白を聞かれたと仮定すると、わたしは恥ずかしくてたまらないってことなの。わたしはいつも何人かの人にお手紙を書いて、見に来ないでって言ってやったわ」彼女はまた胸の中を探るようにして「去年の夏の『人気者』のペギーン(訳注 シングの名作「西の国の人気者」のヒロイン)だけは例外。あれは本当にいい舞台にできたのに、ただ、プレーボーイをやったあのぼんくら君が、面白さをすっかり台無しにしてしまった。あんまりウィットなのよ−まったく、ウィットだったらありゃしない」

p81《ゾーイー》
Sは僕に向かってにこやかな笑顔を向けながらかぶりを振って、利口というのは僕の痼疾、僕の義足だ、こいつを指摘してみんなの注意をそこに向けさせるのは最大の悪趣味であると言ったな。びっこ同士だ、ゾーイ君、お互い丁重親切にしようではないか。愛を込めて B

p90 (ゾーイー)
彼女は苛立たしそうに身体を動かすと、脚を組んだ「第一、危険じゃありませんか!かりに、脚を折るとかなんとか、そんなことでもあってごらんなさい。あんな森の奥なんかでさ。あたしはいつもそれを心配してんですよ」

p83 (ゾーイー)
ティナ−だって、ホントなんだもん。あたしって厄病神なんだわ。おそろしい厄病神なんだ。もしもあたしがいなかったら、スコット・キンケイドはとっくの昔にあなたをブエノス・アイレスの勤務に任命してたんだわ。それをみんなあたしがダメにしちゃったんだ。(窓辺に歩み寄る)あたしって女もぶどうもダメにしちゃうあの狐なんだわ。

p159 (ゾーイー)
「ナン・デモ・ナイ。お願いだから、わたしをいじめないで。あたしはただ考えてただけよ。土曜日のあたしを見せたかったわ。あなたの場合は、みんなの士気を沮喪させるなんていう程度でしょ。あたしはレーンの一日全部を完全にめちゃめちゃにしちゃったのよ。一時間ごとに気を失っただけじゃないの。わたしがあそこまではるばる出かけていったのは、楽しくて、仲良しで、清浄で、カクテルもまじって、おそらくは幸福でもあるはずのフットボールの試合のためだったのよ。それなのにレーンが言った全部のことに一つ残らずわたしは、意地悪言うか、さもなければ反対するか、さもなければ−わかんないな−要するにダメにしちゃったのよ」

p83 (ゾーイー)
なんだか、あたし、意地悪いほどに洗練されたお芝居に出てくる登場人物みたいな感じ。ただ、へんなのはね、あたしは意地悪くも洗練されてもいないの、あたしは何でもないの。あたしはあたしなだけ。(振り向く)ああ、リック、リック、あたし怖い。あたしたち、一体どうしちゃったのかしら?あたしたちってものがどっかへ行っちまったみたい。どんなに、どんなに手をのばしてみても、あたしたちはもうそこにいないのよ。あたし脅えてるの。怯えた子なんだ、あたし。(窓の外を見る)憎らしい雨。ときどき、雨の中で死んでる自分が目に見えることがあるの。
リック(おだやかに)−きみ、そいつは『武器よさらば』の中の科白じゃないかい?

p84 (ゾーイー)
台本を読んでいたゾーイーは、突然、母親の声に邪魔された。言ってることは建設的なのに、その実うるさい以外の何物でもない言葉をバスルームの戸の外からかけてきたのである
「ゾーイー?まだ風呂に入ってるの?」
「ああ、まだ風呂に入ってる。どうして?」
「ほんのちょっとだけ、中へ入りたいんだけど。あんたにあげる物があるのよ」
「かあさん、おれ、湯につかってるんだぜ」
「ほんの一分だけよ。シャワーカーテンを引きなさい」ゾーイーは読みかけのページに別れの一瞥を与えると、台本を閉じ、それを浴槽の外へぽとりと落とした。「やれやれやれ」彼は言った「ときどき、雨の中で死んでる自分が目に見えることがあるの」

ゾーイー 前編 完

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?