パラノ井戸

入れ子的表現というのはパラパラ漫画の中にパラパラ漫画の中にパラパラ漫画を描くというだけではやや不十分でその過程や工程までもがその入れ子的表現の中に含まれていないように思う。なのでそれを行うのであれば、並列上に存在するいくつかのパラパラ漫画をランダムに差し替えた中で、パラパラ漫画、ではなくパラパラ漫画によって作られたバラバラ漫画の中でこそ、そのパラパラ漫画の中のパラパラ漫画の中のパラパラ漫画は進行されていくべきものと思う。分かりやすく例えるのなら、テレビのチャンネルがランダムに高速に変わり続けるその画面にペンライトを振ると浮かび上がる文字のように色も形も音や景色も超越した井戸(実際に井戸ではないのだが実際の井戸以上に井戸であると認めざるを得ない井戸)がうかびあがってくるようなイメージだ。その井戸の底にはまた井戸がありその底にもまた井戸がとずっと続いてどこまでも伸びていく。と同時にその見えない底の方から得体の知れない何者かがズンズンズンズン這い上がってこちらへとやって来る。とその何者かはテレビから出て来るのではないかと思うほどカメラに近づいてくるので一瞬私は身構えるのだが、そいつは勢い余ってカメラを追い越しそのまま画面の外へとフレームアウト。と、よくよく見ればそこに映る井戸は家の庭の井戸ではないかと気づく。と同時におまえは何者かに後ろから覆いかぶさられるがいなや、もし仮に始球式を務めたならば急速100キロ弱はマークするであろう剛腕に首根っこを掴まれると庭の井戸へと引きずられ、井戸の中へと放りなげられた。そこで井戸に落ちながらにしてはじめてその何者かの姿の全貌をわたしは把握することが出来た。井戸へと落ちていくこの角度だからこそ伺うことが出来た。そう、その何者かはまさしくあの貞子なのであった。そして右手にはなんとそのすべてを記録して自撮りしてやろうとしっかりとビデオカメラが構えられていた。。井戸の底から顔の見えぬまま這い上がり迫ってきた貞子を裏返したかのように表情の伺えた貞子から落ちていく私はどんどん遠ざかり終いにその姿さえ見えなくなってしまった。私は井戸に落ちながら、私の部屋のテレビに映っているであろう井戸に落ちていく自分の姿を他人事のように想像し、その落ちる自分の姿をテレビ越しに見ている自分の姿を想像し、また落ちる自分の姿をテレビ越しに見ている自分の姿を映画館のスクリーン越しに見ている自分の姿を想像し、と井戸の中の井戸へと落ちるほどに画面の外側からそのまた外側の自分へとそのすべてに、落ちながらにして同時に思いを馳せていくのであった。私は落ちているのか、それを見ているのか、はたまたその見ている私を見ているのか?とそれはまるでその一人一人の私の体の中で多種多様に伸びる繊細な感覚の全てが研ぎ澄まされつつ一体化するようで、それぞれの他の場面の私や私や私と井戸の穴を通じて1つの生命体へと同化していくような感覚であった。その生命体は私の外側を覆うように私の内側に私を内包しながらもその私の中の私に外膜を包まれてもいる状態でもあって、そんな私は私を私以上に私だと認めざるを得ないほど私であり、私以外のすべても私にそれと全く同じ感想を抱いているのであった。


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