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ACP(人生会議)への懸念

ACP(人生会議)への期待感を、これまでいろいろと述べたり書いたりしてきた。とはいえ、私は人生会議を盲目的に信奉しているわけでもないし、問題がないなどとはこれっぽっちも思っていない。そこで、まとめて懸念を記しておく。懸念はあるにせよ、最期まで「生き抜く」ための大切なツールにとして活用できる人たちは必ずいると思っているし、そうした懸念材料を減らして、より多くの人たちに役立つことこそが肝要だと思っているからだ。

「空気」による同調圧力
大きくは3つの懸念がある。一つ目は同調圧力だ。

日本人は「空気」に支配されやすい。自身の考えを大切にするより、ともすれば周囲の空気を読んで発言しがちだ。自身の希望や考えを根底に、話し合うプロセスを重視するACPで、この「空気」は厄介だ。「家族に迷惑をかけたくない」という言葉に象徴されるように、自身が最期までどう生きていきたいかよりも、周囲が自分にどのような最期を迎えさせたいのかをおもんばかってしまう懸念がある。

治療不可能な病での自己決定強要の危うさ
これと関連するのが2つ目の懸念だ。たとえばALSのような、現時点では治療不可能で確実に死に向かっていく病がある。医学的な対処方法はある程度限りがある。そうした前提条件がある中で治療方法の選択肢が示されるとすれば、それは治療差し控えなど、命を縮める選択肢である場合がほとんどだろう。それを「自己決定」に委ねてしまうのはあまりに酷だ。東京・福生での透析治療中止事案などはまさに「選択肢=死」だった。人生会議の名のもとに、ことあるごとに自己決定を求めることは、周囲が同調圧力をかけて「空気」を作り出してしまう懸念がぬぐえない。

医療者への懸念
3つ目は医療者の問題だ。インフォームドコンセプト(IC)が導入された当初、それは「説明と納得」が不可分のセットのはずだった。納得し、合意してもらうまで、医療者と患者とが何度も話をすることが前提だった。だが、普及するにつれて少なからぬ医療現場では、ICは単に「説明」と同義になってしまった。「説明しました。説明を受けたサインをしてね。これで責任はもう医療者にはないからね」という感じで、一方的に説明して同意書にサインをもらう。「ICを取る」という言い方が医療現場で使われている現実がある。患者や家族らときちんとコミュニケーションをとることなく、「ACPを取る」という言い方が広がる懸念がある。本来はプロセスであるはずのACPが、いつしかICと同じようになり、単にAD(事前指示書)を「取る」ことと同義になってしまえば、機械的な説明をして「自己決定」を迫る道具立てに堕しかねない。しっかりと診療点数がつくようになれば、おそらくこの懸念は現実となるだろう。2つ目の懸念が特に引き起こされるのは、ACPが単なるルーティーンとして機械的に行うものになってしまったときだ。ALSのような場合は、治療方針ではなく、「何をしたいか」という点が主眼の話し合いができるかどうか。できるだけその希望を叶えるために何ができるのかを考え、実行していく。医療者にはこうした見極め、臨機が求められるのだが、さて現実にどれだけの医療者が対応できるのか。

原点を忘れないこと
こうした懸念を避けるためにまず大前提として必要なのは、ACPがプロセスであるという原点を医療者や患者、その家族がしっかりと認識することだ。まだまだACPという言葉自体も広がりがない現状のいまだからこそ、「患者や家族にとって、最期までしっかり生き抜く望ましい過ごし方、治療の方法」を求める手段であり、間違っても「死に方」を問うものではないという認識をきっちり広げていく必要がある。特に医療者にその意義と必要性を認識させること、診療報酬をつけるとしたら、ACPのために振り向けた対話時間などを報酬対象とするぐらいの誘導があってもよいだろう。

コンサル業があってよいかも
「空気」に対抗するためには、もしかしたらACPのためのコンサル、患者の立場にたってしっかりとアドバイスできる人の存在があったほうが場合によってはよいかもしれない。医療者にじっくりと時間をとってもらい説明を受け、質疑することが難しい現実がある。気兼ねなく質問し、やり取りする、コミュニュケーション能力が高く、医療知識もある人がそうした業務を行い、人生会議に関与していく。そんな社会態勢がとれればよいと思う。

ACPが有効な人たちは必ずいる
以上のような問題点や懸念はある。だが、必ずACPが有効な人たちはいる。特に家族関係が良好な場合、「本人の希望を踏まえて最期までやりきった」という納得感が得られる可能性が高まるだろう。それによって遺された側のグリーフが軽減されるのではないかと思う。関係性があまりよくない場合ならば、家族関係をむずび直すよすがになる可能性もある。また、治療は無理でも、ACPを通して得られた方向性で生活を支えることはできるという観点が得られれば、医療者にしても「病への敗北感」ではなく、仕事の意義を再認識し自己肯定感が得られるのではないか。

死は不可避だからこそ、生きる意義を再認識し、最期まで生ききることができる人が増えればよいと思う。その一助としてACP、人生会議は役立つ可能性がある。可能性を少しでも広げたい。だからこそ、期待感を述べたいと思う。

#ACP #人生会議 #自己決定 #死


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