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終活から集活へ。「人生会議」への期待もこめて

ここ3、4年ほど、講演会など、事あるごとに口にする言葉がある。「終活から集活へ」だ。

人と集い、語らい、交流し、縁を紡ぐ。それを集活と言っている。終活は大事だが、いま多くの人が関心を寄せる終活には足りない部分があると思っている。そんな私の思いをインタビューしてくれた記事もある。

終末期医療の治療方針をだれが決める?
足りないものは大きく分けて2つ。一つは集活で、もう一つは終末期(人生最終段階)医療の治療方針に関する事だ。実は2つは密接不可分、表裏一体だと思うので、後者について先に述べると、特に認知機能の衰えや意識がなくなったときに誰がどのように治療方針を決めていくのかという点が意外とおろそかになっている。

たとえば、今後起こるかもしれないことへの備えとして、お墓のことを「具体的に考えている」一人暮らしの高齢者は全体の42.1%、葬儀については28.6%なのに対し、終末期医療については16.6%しかいない(内閣府「一人暮らし高齢者の意識に関する調査」2014年度)。終活はモノやサービスを購入することがメインになっている。

真面目な人ほど「周りに迷惑をかけたくない」と、きっちり墓や葬儀などの準備をする。同時に、きっちりした人ほど終末期医療についてもリビングウイルなどによって「延命治療不要」などと事前指示書を記載する傾向があるように思う。それがともすると自分の殻を厚くして、周囲との関係を深めるのとは逆方向になっているように感じることがある。

家族や友人ら、最期を託す人ときちんと話しあっているならまだしも、単に迷惑をかけたくないという思いから記しているとしたら、少々寂しい。人生最後に迷惑をかけることはある程度、あたりまえのことだ。むしろ、迷惑をかけあえる関係をつむぐこと、自分に代わって判断を安心して委ねられる人たちの存在を身近に感じて暮らせること。それが大切だと私は思っており、そのことがつまり集活だと考える。

人生会議に期待すること
この治療方針に関しては昨年11月30日、ACP(アドバンスケアプランニング)の愛称を「人生会議」と国が発表(同時に、この日は「いいみとりの日」に制定された)したことで、変化がおきることを期待している(一方では心配もあるのだが、ここでは触れない。あらためて)。

私が期待する人生会議の姿を一言でいえば、「最期まで自分らしく生きるために、自分は何を考え、大切にするのかを周囲の人たちと何度も何度も話しあうこと」だ。その延長で、たとえ意識がなくなっても、周囲の人たちが話しあう場に自分が「いる」だけで、周囲の人たちが「この人はこうした価値観を大切にしていた」「こんなことを言っていた」と忖度して語り合ってくれることだ。そんな周囲の人たちに安心して委ねられる関係性が最期まで続いていることだ。その結論としてどのような方針が決められても委ねられる安心感、周囲の人たちにとっても納得感が高い状態をつくることこそが人生会議の肝なのではないかと思っている。事前指示書など、紙に一度希望を記したら「はい、おしまい」では決してない。

これが実は、集活の一つの形だ。集い、語らい、交流して縁をつむぐ。期待する人生会議のありようとは集活そのものといえる。もちろん、これ以外にもさまざまな形の集活がある。地域の「居場所」でゆるやかな関係性を結ぶことも大切な集活だし、終活のなかでもたとえば「墓友」と呼ばれる、将来は同じ永代供養墓などの共同墓に入る者同士が生前から交流して関係をつむぐよううなことも集活だ。

終活という、人生最後を見つめての行動が、人との関係性を考え、再構築する機会となることが大切だと考えている。それが冒頭に記した「終活から集活へ」という言葉に込めた思いだ。終末期医療に関しては、事前指示書から人生会議へという言い方ができるかもしれない。
(写真は地域の「居場所」に集まって麻雀をする近所の高齢者)

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