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元号 循環する時間と直線的時間

「平成最後の日」に、時間の流れについてふと考えた。西暦やイスラム歴は始点があって、そこから後は時間を積み重ねるというか、伸びていく直線的な一方向への流れとして時間をとらえている。それに対し元号は、循環的な時間だ。積み重なる時間がせいぜい数十年でリセットされ、また一から始まり繰り返されていく。政治的解釈や良し悪しは全く別にして、面白い時間のとらえ方であり、死生観にも影響しているように思う。

時間がまっすぐ伸び続けるという感覚は、永遠や絶対的なるものを信じるのにふさわしい時間のとらえ方だ。ここでの時間は人の関与するものではない不可侵の絶対軸だ。死後の世界を前提すれば、生前よりも永い死後のことを意識せざるをえないから、生前の行動を縛る。それが時には「自爆テロ」のような妄信まで生み出す。戦前の「皇紀」が、起点から直線的に伸びる時間軸を想定していたことと、「天皇陛下のために」との掛け声のもとで行われた狂気の戦争との間にも、なにか目に見えない関係、影響があったかもしれない。

もちろん、日本人も「地獄・極楽」の感覚はあるけど、生まれ変わりとか、お盆の時期の死者と生者の交流とか、もっとゆるいというか、死後が永遠の孤独というのとは少し違う感じがする。それは時間が循環するという感覚をどこか根本にもっているからのように感じるのだ。四季が色濃く表れる土地に暮らす農耕民族の感覚といったらよいだろうか。元号はその感覚にフィットした時間の区切りであり、表象のように思う(だから元号を使うべきだという主張とはまったく別モノ。念のため)。また元号は人が制定するわけで、とても人間臭い時間だともいえる。それが今回の「令和」発表時のような政治的パフォーマンスを生み出す余地にもなるんですけどね。

#元号 #改元 #令和 #平成 #時間 #死生観 #西暦

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