我が事と思たら、我が事になる
(大望 2018年2月号より転載)
人の喜ぶこと、たすかることをする。そのとき、「してやる・してあげる」と思うか、「させてもらう・させていただく」と思うか。同じことをしていても、している心が違う。
してやるという心であっても、人のたすかることをするのであるから、悪いということはない。むしろ、良いことをしているように思う。しかし、直接、おやさまに導かれた先人の教話を読ませていただくと、してやるという心では、おやさまの足跡をふむことも、いんねんを切りかえるということもできない。それでよいなら、この道を広めることはいらない、とまでいわれる。
<かりものの理がわからなくては何もわからん>
「おふでさき」に、
めへくのみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん (三号 137)
と記されているように、この道の先人のお話においても、かしもの・かりものの理に基づいて心の治め方が諭されている。
たとえば、宮森与三郎「だめの教」(『本部員講話集(上)』道友社編、大正9年)というお話においては、おやさまのひながた、かしもの・かりもの、八つのほこり、いんねんを果たすというお道の教えの筋道のもとで、
御道で借物の事がわからいでは、千言聞いても万言きいても何もわからんとおつしやる、身上は神様からの借物であるから、それについた物は一切借物である、心だけがわがのものや、日々結構な御守護をいただいて生活さして貰ふて居るのや、百姓にしましても自分が働いて、おれはこれだけの物を造つたと思ふて居るのは、みな天の理に背いて居るのや、(中略)そやから神様の御守護によつて拵へさして貰ふたと思ふのと、自分が働いて自分が作つたと云ふのとは大変に間違つてくる。(24頁)
と語られている。
このように、かりものの理がわからなくては何もわからん、一切はかりものであるというかしもの・かりものの教えに基づいて、神様のご守護をいただいてこしらえさせてもらったと思うのと、自分がつくったというのとでは、大きな違いであり、たいへんな間違いになってくると、この道のものの見方が具体的に説かれている。
そして、
天理教に於きましては、『貰ふ』と云ふ事になつてこなければ教祖様の足跡をふまして貰ふことが出来ない、『どうして上げる』『かうして上げる』と云ふのは世界並や、人が重い荷を持つて居られるとか、重い荷を曳いて居らるゝとか仕事をして居らるゝとか云ふ時に、どうか私に手伝はして下され、手助けさして下され、押さして下されと云ふのはこれが天理教の心使や、これが教祖様の雛形や。(36頁)
と、どうしてあげる、こうしてあげるというのではなく、私に手伝わせてください、手助けさせてくださいというのが、この道の心づかいであり、これがおやさまのひながたであるといわれる。
<我が事と思たら、我が事になる>
どうしてあげる、こうしてあげるというのも、人のたすかることをしているのであるから、その場では良いようであるが、何か事情が起こり、その人と心が合わなくなったり、自分が困難におちいったときには、あれくらい世話してやったのに、これほど難儀をしているのにと、やった物事を取り返すような心がわいてくる。
しかし、このお話の続きでは、
教祖様は『わが事と思ふてしたらみんなわがものになるのや、人の事やと思ふてしたらみんな人のものになつて仕舞ふのや』と度々仰せられました、人の事と思ふからどうしてあげるこうしてあげるといふのでせう、そやから天理教では貰ふといふ事になつて来なければ、いんねんははたせん、百姓するにも、商売するにも職するにも、成程神様の御守護をいたゞいて御世話さしてもらふ、どうさして貰ふ、こうさして貰ふといふて暮さして貰ふのでせう、世界並は『遣らう』といふ、天理教では『貰ふ』といふ、やらう貰ふといふ所に帰着するのや。(37~38頁)
と語られるように、人の事と思うからどうしてあげる、こうしてあげるということになる。何をするにも我が事と思って、神様のご守護をいただいてお世話をさせてもらう、どうさせてもらう、こうさせてもらうといって暮らさせてもらう。これが、この道の心づかいである。その大事なところは、「やろう/もらう」というところに帰着するといわれる。
この点、おやさまの逸話の中にも、「我が事と思うてするから、我が事になる」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』の「一九七 働く手は」)というおことばが伝えられ、「おさしづ」にも、
我が事した事は、皆人の事と思たらあきゃせん。我が事と思たら、我が事になる。人の事と思たら人の事になって了う。(明治31年9月30日)
と諭されるところである。
この道においては、神様のご守護をいただいて、お世話させてもらう、こうさせてもらうという、やわらかやさしい、あたたかい、低い心で通らせていただくのである。それが、おやさまの足跡をふむということにも、いんねんを果たすということにもなってくる。
この道の心、すなわち、かしもの・かりものの理に基づいた心づかいは、ちょっとした心づかいの違いをいわれるようであるが、それは、おやさまに導かれた先人によって、おやさまのお心と、教えの台であるかしもの・かりもののお話を重ね合わせて、おやさまのひながたをたどらせていただくにはどういう心でつとめさせてもらえばよいか、ということが説かれるのである。
おれが、私が、してやるのではなく、陰日向なく、みな我が事であると思ってさせていただく。神様のかしもの・かりもののご守護をいただいてさせていただく。してやるのではなく、させてもらう、させていただくというのが、この道の心のつかい方である。
先人によって、この道の精神、心づかいは、こうして語られてきた。取るに足りない小さな事柄のようで、なかなか大事なところである。
(さわい いちろう)
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