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宗教的儀式と女性


宗教的儀式と女性 (みちのともより)

(みちのとも2018.6号より転載)
きょうだいへのまなざし
〜道と世界の思案〜
記事:永尾教昭(本部員・天理大学学長)


少し前のことだが、相撲にまつわることがなにかと話題になった。
 舞鶴で行われた巡業の際、あいさつに立った市長が土俵上で突然倒れ、その救命活動のため女性の看護師が土俵に上がった。その時「女性は降りて下さい」と場内放送されたことから、騒ぎが広がった。
「なぜ女性は土俵に上がってはいけないのか、そんな古臭い伝統はもうやめるべきではないか」「いや伝統だから守っていくべきだ」などと論争になっている。ここで少し、その理由を考えてみたい。

 なぜ、女性は土俵に上がってはいけないのか。そもそもはスポーツではなく、神事だという。それゆえ、今でも本場所が始まる前日には「土俵祭」を行い、祝詞を上げ、縁起物を土俵中央に埋める。横綱は、通常神域を表すものである、しめ縄を自らの体に張っている。土俵は、そうゆう神事が行われる神聖な場所であるから、女性は上がってはいけないのだという。


 神仏の祭礼を行う場所から女性を遠ざけるのは、なにも相撲に限ったことではない。ん日本を代表する祭りである祇園祭では、山鉾巡航時、女性は、鉾に乗れない。現在、宵山(巡行前夜の祭り)などでは多くの鉾に女性も乗れるが、かつてはまったく乗れなかった。それどころか、巡行の引き手も女性はご法度である。


 仏教でも、女人禁制のところが多かった。高野山には、いまでも「女人堂」といわれるところがある。かつて、女性はそこまでしか上る事を許されなかった。

 西洋でも、神事において女性を遠ざける伝統はある。カトリックは現在でも、女性司祭は認めていないし、ロシア正教やギリシャ正教も同様である。
 ユダヤ教の聖地である「嘆きの壁」は、男性と女性の礼拝する所が鉄の仕切りではっきりと区別されており、女性の礼拝場の面積は、男性のそれと比べてはるかに狭い。ちなみに、いすらえるの現政権は昨年一月、男女が一緒に礼拝できるようにしようとしたが、反対派の声が強く、現時点で実現の、見通しは立っていない。


 なぜ、洋の東西を問わず、宗教的な儀式から女性は遠ざけられるのだろうか。諸説あるようだが、最大の理由は、女性の生理(月経)にあるといわれる。体の外に出た血液が不浄と考えられ、さらにその機能をもつ女性そのものが不浄とみなされるようになったのだろう。
 旧約聖書には「女性の生理が始まったならば七日間は月経期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。生理期間中の女性が使った寝床や腰掛は全て汚れている。彼女の寝床に触れた人はすべて、衣服を水洗いし、身を洗う。その人とは夕方まで汚れている」と記されている。

 インドの代表的な宗教であるヒンドゥー教でも、保守的な家庭は今でも、生理中の娘が庭の片隅の小屋にむしろを敷いて寝起きする事があるという。その教典である、マヌ法典には、「月経中の女性とはかたってはならない」と書かれている
 なぜ、これほどまでに生理を不浄なものと考え、女性を遠ざけるのか。これにも諸説あるようだ。


 民俗学を専門としている大学教授に教えていただいたところによると、一つには、生理で体外にでた経血には雑菌が多く含まれており、たとえば生理中に男性と接触すると、感染症にかかる危険性が高い。女性自身も生理中は免疫力が落ちている。今ほど医学が発達していない時代、、誰かが感染症にかかることは一大事であった。だから生理中の人が多く集まるところへの出入りをさけねばならない。そして人が集まる事といえば、多くは宗教行事だった。したがって、女性は宗教行事から自然と遠ざけられ、同時に女性そのものが不浄と考えられるようになったのではないかと、と言う。


 幕末、まだ迷信や言い伝えといったものが強く信じられていたころ、教祖は、女性の生理について

「花が咲かずに実のなるものが、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上では言うけれども、何も、不浄なことはありゃせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう、悟ってみいや。(中略)なにも不浄やないで」
(「稿本天理教教祖伝逸話篇」一五八「月のものはな、花やで」)


と述べられた。

 世界中の人が不浄だと言い伝えてきた生理という現象を、教祖は美しい花にたとえられ、女性は決して不浄ではなく男女伊は平等だと宣言された。そして、男性と女性が一緒になって、つとめを勤めることを教えられた。その教えどおり、本教のつとめは、ぢばで勤められるかぐらづとめはもとより、国々所々の教会においても男女が共同で執り行う。


 それぞれの宗教には長らく守られてきた慣習があり、その善しあしを言うつもりは全くない。ただ、教祖の教えは、きわめて画期的かつ開放的と言えるのではないだろうか。
 だからこそ、本教のいろいろな組織の中に、もう少し女性の役職者が増えてもいいのではないかと筆者は思う。

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