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想像力の外がつくりだすもの

今日はこの話に触れないわけにいかないだろう。また痛ましい事件があった。今度は川崎とのこと。

これを書いているときにyahooを見に行って、発見した記事なので、事件の概要というより現時点の最新記事だが、概要はみなさんご存知の通りだと思う。50代の通り魔が、登戸の私立学校の女児たちを次々に襲い、現時点で女児1名、男性1名の尊い命が奪われた。

この犯行は所謂「無敵の人」の犯行のようである。無敵の人とは失うものが何もない、貧困者を指す言葉だ。背景にはこの社会、世間への強く一方的な憎しみがある。
秋葉原にトラックで突っ込んだ加藤被告や、池田小の事件の宅間被告あたりから使われるようになった言葉と記憶している。

彼らのようなひとびとを刺激しないことが大切だという記事を読んだ。死ぬのなら一人で死ねなんて言葉をかけるべきではない、という趣旨のものだった。
この発言には同意しかねる。誰がどんな言葉を発しようが自由だ。これほどの事件がおきて、感情的になる人がいるのは当たり前だろう。
福祉を行き届かせることで、「無敵の人」を作らないような環境にすべきとの主張には賛同する。

一方で、この事件を貧困や社会の問題とする必要はあるのだろうか?

凶悪犯罪は戦後から減り続けているというデータがあるというのは、よく聞く話だ。
その話と関連して、大量殺人犯の真理を考えても仕方がないのだという趣旨の本を読んだことがある。
彼らは「たとえどのような生い立ちであれ、環境であれ、殺人をする」のだから、いちいち向き合うようなものではないという主張であった。

メディアから必要のない危機感や恐怖や不快感を受け取り、ストレスを溜めることほど無意味なことはないという結論で締めくくられていたと思う。

当時はこの主張が、多くの指示を集めていたと記憶する。
僕も概ね納得していたと思う。

ところが、秋葉原の事件の手記を読んだときには、あまりの身勝手さに怒りを感じながらも、「いちいち向き合う必要はない」と言い切ることはできないと思った。

社会が彼らを追い詰めた側面か、確かにある。

しかし、それでも「凶行に走る」人とそうでない人との間には、深く長い川が流れていると感じる。
自分と違う人間だと、どうしても思う。

僕はここで自分が良心的な人間だと言いたいわけではない。

ただただ、わからないのだ。

僕は確かに、貧困を知らない。
いろんな意味で恵まれてきたと思う。

しかし、貧困に陥る構造は理解できるし、自分で商売をしている今は
「貧困は他人事ではない」という意識は人一倍ある。

そこから、凶行に至るまでの飛躍がまったく受け入れられない。

「悪」というものについて、よく考える。
多くの文学が指摘してきたとおり、人の仄暗い部分に宿り、あるいは魅了し、さまざまな事象・事件が起きてきた。

自分が人を殺める側になってしまうかもしれない可能性について考える。

僕のなかには、間違いなくそれがある。

燻り、蠢めく何かを感じる。

それでも、自分より弱いものを無差別に殺す行為には全く想像力が及ばない。
「自分もそうなっていたかもしれない」と露ほども思えない。
繰り返しになるが、これは僕の良心を示したいものではない。

逆に、その想像力の及ばなさ、足りなさこそが、この凶行の根元にあるのかもしれない。

そう自問するときに、僕の中の「悪」が刺激されているのを感じる。

あるいは、彼らを自分の外に置くことこそが、無敵の人を作りあげているのかもしれない。

対抗する術は、残念ながら見つかりそうにない。


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