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ハンディキャップは言い過ぎだけれど

先日のnoteでさんざん痛風の話をたけれど、まあ大変だった。聞いてた話よりずっと痛かったし、ずっと不便な生活を強いられた。
痛みのピークは2-3日くらいで訪れるが、そのあとあまり痛みが引かない。僕のは場合は鍼のおかげかちょうど一週間ほどでパッと痛みは引いたけれど、もうずっとこのままんなんじゃなないかと絶望的な気持ちになった。

歩くのもままならない状態が続くが、社会人としてはなんとしても歩かないといけないときもある。
そのときにありがたいのが、普段は使わない「手すり」や、ちょっと手をかけられるガードレールだった。
ハンディキャップのある人やお年寄りと比較するのは憚れるけれど、常に不便な思いをしている人がいることに思いを馳せると同時に、何の痛みもなく動けるのことのありがたみをひしひしと感じた。

まだまだ老け込むには早いと思う。でも、僕も30代の半ばを迎えて、新しく獲得することだけでなく、少しずつ失われていくものに目が向かうようになっている。
痛風は想定よりだいぶ早かったし、血液検査に大きな問題はなかったけれど、基準値ぎりぎりのものがやけに気になった。以前の検査の数値なんて覚えていなが、きっとじりじりと悪化しているのだろう。少し暗い気持ちになった。

しかし、手すりのありがたみは、この歳になってさらに痛風になることで、その必要性を感じられたのだと思う。実体というか実像というか、「必要性」の確かな手触りがある。

昔サッカーをやっていた時に、膝の靭帯やってしまった。それからというもの、冷えたり運動で酷使したりすると関節の曲げ伸ばしや、立ってるだけども痛いということがよくる。そんな折には手すりを使うこともあったが、それはあくまで一時しのぎのツールであり、基本的には自分とは関係の薄いものとして認識していたように思う。

でも、今回の痛風で、手すりが「自分ごと」になった気がする。痛風の痛みがひどかったというのももちろんある。でも、それだけではない。何か決定的な変化が自分の中に起こったのを感じている。

歳をとったと言ってしまえば、それまでである。でも、悪くない。全然悪くない。
本当に年若いとは言えなくなってしまったが、そのときの、年若いときの感覚はまだ自分の中に残っていると感じる。ーーこういうことを言うのが年寄りだという感じもしなくはないがーーでも、本当に若い時に「手すり」のありがたみを実体として感じることはできなかっただろう。これは加齢の良い側面、喜ばしい側面であると言るのではないか。

「僕には手すりが必要なときがある」

この逃れようのない事実であり制約が新しい視点と可能性をもたらしてくれるかもしれない。時にはマントラのような役目を果たすこともありそうである。

そう信じて今日は眠ることにします。


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オカオ

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