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LOCAL to WORLDFAMOUS. vol.1

僕が生まれたのは地方の小さな城下町「小田原」。

城があり、山があり、海があり。かまぼこが名産。

そんな町で生まれ、現在もここ小田原で生活をしている。

小さい頃から好奇心旺盛で、落ち着きがない僕は、気になる事は手をつけないと気が済まない性格だった。

生まれて8ヶ月の頃にスイミングスクールに通い始め、小学3年生になる頃には近隣に3校つあるスクール同士の試合では記録を常に更新し続けるほど成長していた。得意種目はバタフライ。その後「小田原のトビウオ」と呼ばれるようになったのは言うまでもない。(嘘)

その反面、集団行動が苦手だった。
小学4年生からソフトボールも始めたのだか、個人プレー大好きヨロシクな僕はチームプレーができず、5年生の終わりには辞めてしまった。

小学6年になると空前のヨーヨーブームが到来し、もちろんいち早く始めた。
とにかく誰よりも速くレベルをクリアしたかったので黙々と練習していた。
そして地元のお祭りで開催されたヨーヨーの大会では見事優勝もした。

自分にハマる事がわかると驚異的な集中力を発揮する僕の脳ミソは、個人競技に対して絶大な効果を発揮していた。(球技は除く)

そんな少年が中学生になる。


僕がスケートボードに出会ったのは1998年の12歳の頃。

中学生になったばっかりの僕は新しい友達も増え、よく共に行動するようになっていった。
その中の1人が群を抜いて洒落ていて、そいつがスケートボードを始めた。うろ覚えだかそいつも先輩の影響だったと思う。
もちろんみんな「俺もやりたい!」ってなった。僕もその一人だ。

当時ストリートカルチャーが雑誌などで注目されていてBMX、インラインスケート、スケートボードすべてが混ざった雑誌なんかも出ていた。

それを読み、スケートボードの値段を見て漠然した。
とても高価だったのだ。デッキだけで12000円!フルコンプリートなんて組んだら3万近くなる事は当時当たり前だった。

当時最先端ゲーム機といえばニンテンドー64だった。ニンテンドー64を持っていた友達はしっかりとした「ブランド物」のコンプリートをゲットしてたが、僕の家はスーパーファミコンしかなかった。もう感の鋭い方はお察しだろう。

しぶしぶスーパーファミコンサイドの友達とおもちゃのスケートボードを手に入れて、学校が終わっては駐車場や歩道でスケートをしていた。

同時に同級生から「乗らないBMXがあるけどいる?」と言われBMXも手に入れた。

今のBMXみたいに軽い物ではなく、とてつもなく重いBMXを譲ってもらった。

そうしてBMXとスケートボードを手に入れ、ウォークマンで「山嵐」を聴いている自分にこう言った。「これで俺もストリートカルチャーの仲間入りだぜ!」
厨二病とはこうゆう事を言うのであろう。

最初は全然跳ぶ事が出来ず、チクタックから練習した。そしてその場で跳ぼうとしても跳べず「どうやったら跳べるんだ!!」って思っていた。 そこで雑誌の「How to Ollie」を何度も何度も読み直し、徐々に跳べるようになっていった。

最初は全然できなかったが、スケートボードやBMXに乗っている時間が凄く楽しかったのでたくさん練習をした。無茶や怪我もたくさんした。

そして初めはできないと思っていた事に対して、メイクできた時の達成感を感じるようになっていった。
怪我をする恐怖心を乗り越えて新しいトリックがメイクできた時の達成感は他には無い物で、大人になってもその感動は今も変わらない。

そして小田原球場という場所にスケーターやBMXライダーが集まっていると知り、小田原球場にも通うようになった。
そこには高校生や大人達がスケートボードやBMXを楽しんでいる姿があった。

いきなりあらわれた中学生の僕達に対して気兼ねなく話しかけてくれ、練習していたトリックのコツを教えてくれた。
教えてくれたお兄さんと仲良くなり、そこから小田原球場にはほぼ毎週通うようになった。
そのお兄さんはめちゃくちゃ下ネタ好きな鹿児島の元暴走族の総長だった。
訳あって小田原に引っ越してきたらしい。

特に連絡をとるわけでもなく、あそこに行けば誰か滑っている環境が自分には凄く合っていた。
小田原にスケートパークはないが、行けば誰かがいる環境があったというのは少なからず恵まれていた。

当時中学生だった僕はあまり感じなかったけど、スケートボードやBMXを通じて年齢や学歴、職業など一切関係無く、コミュニティーが構成されるのがストリートカルチャーの魅力の1つだと思う。


インターネットが現在みたいに発達していたわけでは無いので、スケートスポットは自分で探すか人や雑誌の情報で探す必要があった。

もともと行動力が人並み以上だった僕は誕生日に輪行バッグを買ってもらい雑誌の「全国スケートパークガイド☆」の住所だけを頼りに、一人電車でBMXとスケートを持って鵠沼や横須賀のスケートパークなど気になったところは全て行っていた。
(輪行とは自転車を専用のバッグに入れて電車で移動する事)

今思い返すとなかなかぶっ飛んでる中学生だった。


中学3年になり、高校受験でみんな将来何がやりたい、どうなりたいかを考えるようになってきた。
水泳の推薦で行ける高校はあったが、とある種目で全国3位になってから水泳に対する想いは減っていた。
その反面スケートボードに対して熱い想いを持っていた。

僕は「プロになりたい!だから高校に行かないでスケートボードだけをし続けたい!」と思い父に伝えたら返答は拳で返ってきた。
まぁ言ってることが非現実的だから当たり前だ。

しぶしぶ高校へ行く事を決意したが、勉強なんか勿論するわけでもなく、受験1週間前までスケートばかりしていたら第一志望の高校は落ちてしまった。同じ中学で僕だけだった。

その後二次募集がかかっていた高校に合格し、通学が電車で約1時間はかかる地域だったが、なんとか高校に入学することができた。

勿論はなから行く気のなかった高校。最初の3ヶ月は真面目に行ってたが徐々にサボるようになってきた。


毎朝、高校で唯一できた友達とマクドナルドでホットケーキ&ソーセージを食べ、テラスで英語新聞を読んでいる出勤前のスタバの店長に「またサボりか!早く学校行けよ」とドヤされ、ムラサキスポーツで流れている新作のスケートビデオを見てから学校へ行くのが日課になっていた。

今みたいにYouTubeなんか無いし、携帯も100なんちゃら画素数の写真しか撮れない。
なので気になったトリックの動きを頭に残して、帰ってすぐ練習。できなかったら次の日にまた同じビデオを見せてもらいまた帰って練習していた。

相当ストイックだったと思う。それを受験勉強に生かせていたら。。。

高校に入学してから環境が変わった事で同級生達はスケートボードをやめてしまった。
高校に行ってもスケートボードを続けていたのは自分1人だった。
だけど小田原球場に通い続けたおかげでスケート仲間がたくさんできた。何より「プロになりたい」目標があったのでとにかく前向きだった。

僕のスケートボードに対する想いはどんどん大きくなっていった。

そんな中学生から高校入学までの話。

Vol.2へ続く。

#エッセイ #自伝 #ピストバイク #スケートボード #カルチャー






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Teppei NASTY Iwabuchi

FGFS(fixed gear freestyle)Pro rider.Skate boarder.1985年産まれ。人生一度きり。やりたい事をやる。Counter Attraction staff.http://counter-attraction.jp

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