北の果ての鉱山開発2(手作りの銅鉱山)

 私がこれから書こうとするのは、そうした自然の中で、戦時から戦後数年の物のない時代に必死になって、鉱山を開発した人たちの思い出である。

 必死になってと書いたが、どちらかと言えばそのような時代の流れによって鉱山の開発と言う局面に投入された人々が、その運命に逆らいきれず、日々を送り、そして、結果的に鉱山界でも名のしられた 銅鉱山 に繋がったのだという見方が正しいのかも知れない。

 だが、現在のように、金さえ出せばたいていの物が手に入り、工事計画の実行にも専門技術集団を導入して、他人の手を借りて、いとも簡単に進める事が出来る時代ではなかった。
 道路作りとか建屋の工事に、請負業者の力を借りはしたが、機械設備は大体が同じ会社の他の鉱山から融通してもらって、鉱山の従業員の手で設置するといった事であったから、自分たちで鉱山を作るのだという気概をしらず知らず持たされた。

 そうした事を必死になってと言うのは確かにオーバーであるが、なんとなく分かって頂けるように思う。

 このように鉱山は開発され、いくつかの節目を超えて、間違いなく国内有数の銅鉱山として発展していった。
そして、掘り出された鉱石は、会社の業績に寄与したし、地元の経済にも
鉱山があることによる それなりの役割り を果たし、金を落としてくれる住人として従業員と事業は貢献したと言える。

 しかしながら、時代が進むと大自然がもたらした資源の恵みも世界経済の大きな市場の中で、その価値が判別される。
国内でも有数と言われた鉱石であっても、海外の安価なそれに勝つことはできないし、円の為替レートも大きく変動した。

 そのオキテによって、昭和58年2月、ついに休山の日を迎えた。人々は鉱山を去って行く。鉱害防止のための人達の役目が終われば、この地は 昭和10年代前半頃の姿に帰って行くであろう。

 休山は私にとって大きな衝撃であった。それが若い頃の開発時代を思い起こさせる力となったし、いずれは忘れ去られてしまう鉱山の事を書き残して
置きたかった。

 我が青春の 一こま として。

続く


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