作者と作品は別(漫画日記6月第5週)

三浦俊彦氏がwebメディアの『TOCANA』にトランスジェンダーの人々やレズビアン女性に対する差別や偏見に基づく差別的なコラムを寄稿した件。

事実誤認や、差別や偏見を助長するような主張や侮蔑的な表現も含まれているので、それに対する抗議声明もあったようだ。

三浦俊彦『論理パラドクス』を高校生の頃に読んで以来、何度も読み返しているので(その他シリーズを含め)愛読書といっていい。著作も多いので全ては読んでないけど、それなりには読んできたので思い入れのある人ではある。

どの著作を読んでも感じることだけど、その論理的思考力によってもの凄いレベルで物事を考えることができる人であるのは間違いない。そんな人がなんでこういう問題に関しては露骨かつ稚拙に差別的、侮蔑的なことを書いてしまうのだろうとは思ってしまう。

やはり、こういう差別的な文章を書く人なんだと思うと今後、著作を読む際も少し印象が変わってしまうのも確かではある。

このテーマで何か書くのは全く知識が足りていないので、トランスジェンダー等の話に言及はしないけど、この件で改めて思ったのは作者と作品は別と割り切るのは難しいということだ。

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「作者と作品は別」はあくまで理念的にはそうあるべきというじゃないかというだけで、実際にそう切り分けるのはかなり難しい。というか原理的にできないのではないかとすら思っている。

通常、誰々が作ったからということで作品を鑑賞することがほとんどだし、作品は属人的に消費されることが多い(特定の作家などの個人に限らず集団でもいい)。作り手側をまったく意識せず作品単体として鑑賞することは、それに比べればかなり少ない。

まったく知らない人の作品に触れて好きになることも当然あるだろうけど、もし仮にその作者がなにかしら罪を犯していたり、何かに差別的な発言をしていれば作品の印象も少し変わってしまうのではないだろうか。

これは「誰が言ったかより何を言ったか」という話にも近い。それ自体は確かにそうあるべきではあっても、実際には誰が言ったかがまったく問題にならないことはほぼない。同じことを言っても、まったくよく知らない人物より、成功者や、より著名な人物、権威のある人物が言った方が聞き入れてもらいやすいし説得力が増すのもまた事実ではある。「誰が言ったか」と独立に「何を言ったか」を判断できる人はかなり限られる。

「作者と作品は別」に関しては「作品」だけを鑑賞できるほど「作者と作品」の関係性は独立していないように思う。都市伝説やフォークロアのような作者不明の話を除けば、作品を鑑賞する際も、その背後の作り手をまったく意識しないことないし、「作品」はそれだけで独立しているわけでもなく常にあらゆる文脈によって消費されているものだ。作品は作品として、それだけを鑑賞するというのは思った以上に難しい。「作者と作品は分けて考えるべき」と安易に言えてしまう人は、普段の自分の作品への鑑賞態度に対して無自覚なのではないかと思う。

三浦俊彦氏のように著作にも思い入れがある人が、今回の件のような差別的な主張をする人だというのは、やはり少しショックを受ける(『下半身の論理学』などでも、その萌芽はあったかもしれないけど)。僕個人としては「作者と作品は別」と簡単には言えない。




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てらだこうじ

漫画を描いてます。あと日記も。mail:teradakoji09@gmail.com

漫画日記

コメント1件

差別している方いるんですね、差別は良くないです
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