漫画日記(5月第3週)

「コジコジはコジコジだよ」ってコジコジの名言まとめなやつにも必ずでてくるし、こうやってネットに画像貼って引用されてるの何度も見たけど、確かこの回はラストでジローがお母さんに叱られそうになって、コジコジのこのセリフの真似をしてビンタされるってオチだったはず。

このコマだけ読んで影響受けて「僕は僕だ」「私は私だよ」とか言い出した人が、だれかにおもくそ説教されたりビンタされてたら面白い。

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読んだ本、見た映画の感想をつけたいと思っているけど、いつも続かない。
毎回つけるのはかなりしんどい。

しかし、やはりメリットもあって感想を書いておくと読んだ本、見た映画の内容を忘れにくくなるというのは間違いなくある。

というわけで最近読んだ本の感想を書きます。

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個人的な憶測で「音楽」はずっと「身体を動かすこと(ダンス含む)」と不可分で「音楽を聴くこと」と「身体を動かすこと」が分離したのは複製技術の発達以降、録音された音楽を聴くことが主流になった1920〜30年代あたりからかと思っていた。

クラブで踊るみたいな行為に対して苦手意識がある人も結構いるだろうし(僕も行ったことがないし苦手意識がある方だ)、音楽をただ聴くものという捉え方をしている人もかなり多いと思う。ただ、「社交」や「身体を動かすこと」と「音楽を聴くこと」は録音と複製技術の発達以前は切っても切り離せない関係だったはずだろうと何となく考えていたのでタイトルに興味を惹かれてこの本を読んだ。

この本によれば「近代的聴衆(音楽を聴くという態度に特化した人)」は市民革命以降、音楽を聴く層が一部貴族から市民に移行し、コンサートホールが建設され音楽が商業ベースにのるようになった19世紀あたりに誕生したものらしい。

それまではパーティーなどで音楽を演奏する場があっても、聴く側もお喋りに興じたり踊ったりしていて真剣にただ音楽を聴くという人はいたとしても少数、そもそも音楽会自体が貴族やその知り合いを集めて開かれる程度のものでしかなかった。

この本には「音楽」と「体を動かす」ことの分離について詳しく書かれているわけではないけど、音楽をただ聴くという聴取スタイルの萌芽は複製芸術の発達以前からあったということを知れただけでも十分読んだ価値があった。

『聴衆の誕生』の概要は18世紀以降のクラシック音楽史を通してモダン/ポストモダンの構造分析をするというもの。

18世紀あたりまでは音楽は社交場でのBGM的な側面が強く、ただ「聴く」ことをメインにしている人はほとんどいなかったのが、産業革命、市民革命を経て19世紀になると音楽需要のメイン層は貴族からブルジョワに移行。コンサートホールで音楽を聴くという聴取スタイルが誕生し、初めは演奏者が超絶技巧を披露して聴き手を魅了しファンを増やしていくようなスタイルだったのが、次第にそういった商業主義的なものを否定して音楽はもっと高尚なもの、精神性を堪能するものというような価値観が生まれてくる。

20世紀に入り大量消費社会化するとクラシックは「作品の精神性を正しく理解して聴こう」というよう真面目な(教養主義的な)聴き方より、あらゆるものが並列化(カタログ化)された中で「おしゃれ」「高級」のように他との差異を求めて消費されるようなものになる。そして、現代では教養主義的な聴き方をする人を「真面目派」より理屈はともかく反射的に音楽を聴く「軽やかな聴取」が優勢になった。

著者は「軽やかな聴取」にはどちらかといえば肯定的で、むしろ「真面目派」は音楽構造や楽譜(記述されたもの)に興味が行ってしまい音楽自体への関心が低くなってしまっている(聴いているようで聴いていないかもしれない)と指摘し、「軽やかな聴取」は音そのものに関心があり、そしてそれは近代的聴衆の誕生以前への回帰かもしれないと、「軽やかな聴取」の可能性を提示する。

「クラシックは教養を持ってちゃんと聴くものだったのが今はろくな知識もないでクラシックを軽く聴く人が増えてしまった」のような嘆きに対して「”クラシックは真面目に聴くもの”って価値観自体が近代のある時期に限定的、偶発的に生まれたものにすぎない」と看破するような構図でもあり、それだけでも明晰な分析で面白いんだけど、ただ、この本で一番面白かったのは文庫版に用に書き足された補章だったかもしれない。

補章では、真面目に音楽を聴いていた「近代的聴衆」(モダン)と、娯楽消費的に音楽を聴く「軽やかな聴取」(ポストモダン)とを対比的に語っていたけど、そういうモダン/ポストモダンという対比で何か語ろうとすることすらポストモダン側からの要請/欲望なのかもしれない、と本文の主張をある意味では無効にするような議論を展開している。

楽器の自動演奏化や複製技術の発達等のハイテク化が、音楽の大衆化と消費化をすすめ脱近代(ポストモダン)の原型を作ったという主張も19世紀の状況を仔細に検証すれば楽器を自動演奏化しようとする巧みは常に行われていて「ハイテク思考」は19世紀以前からもあり、モダンにもポストモダン的な側面は見出すことができる。なので、そういったモダン/ポストモダンというような区分で分けて何かを明瞭に語れるようなものではないかもしれない。「軽やかな聴取」にしても18世紀、19世紀の時点でも多くの人にはそういう聴き方がされていた可能性も大きく、やはり「モダン」とされる側にも「ポストモダン」的な兆候はあり、普遍的だと思われている価値観も近代になって生み出されたものに過ぎない、と「幻想」を剥ぎ取ろうとする態度も、もしかしたら「本物幻想」に囚われているだけかもしれないと指摘する。

「ポストモダン」って意味や定義がわかりにくい言葉だけど(そもそも古びつつある言葉になっているんだろうけど)、相対的にしか定義できない言葉だから仕方のないことなんだなと、この本を補章を含めて読んで理解できた気がする。

ある種の相対主義も時代を経れば「あの頃は相対化して物事を見ようとしていた時代だった」みたいに、それ自体が相対化されてしまう可能性がある。絶対的な価値基準はなく、ある時代には絶対的に見えた価値基準もいずれは相対化されてしまう可能性がある。とはいえ、安定した価値基準がないと人は不安になってしまうもので安定した価値基準の生み出す欲求は常にあり、時代の中での価値基準の絶対化とその相対化の反復が常に行われていくものなんだと思う。

30年以上前の本だしテーマが「クラシック音楽」と絞られているけど、時代やジャンルにとらわれない普遍的な問題を論じているので読んでいてとても面白かった。

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一冊で長くなり過ぎたので、他の読んだ本の感想はまた別の機会に。

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てらだこうじ

漫画を描いてます。あと日記も。mail:teradakoji09@gmail.com

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