『運命論を哲学する』 (明石書店)刊行記念 入不二基義×福岡伸一トークイベント

『運命論を哲学する』 (明石書店)刊行記念 入不二基義×福岡伸一トークイベント

このイベントに行った。

哲学者(入不二基義)と生物学者(福岡伸一)の対談。

メモを取っていたので、印象に残ったところを部分的にまとめる。
録音していたわけではないので、言い回しのニュアンスの違いや意味の取り違いもあるとは思う。なので、正確なレポとしては機能していないものです。

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・司会者から「まず、10分くらい雑談をしてください」という無茶振りをされイベント開始。

ーそれに対して入不二先生も「雑談ってそういうもんかな」と困惑していた。確かに「さあ、雑談するぞ」と意図的に始めることはあまりない。このやりとりを見て永井均『マンガは哲学する』で『伝染るんです』の「取り返しのつかないことをする男の話」と「ウカウカする男の話」が取り上げられていたことを思い出した。「取り返しのつかないこと」は意図的にはしないけど、意図的にやろうと思えばできる。「ウカウカ」は意図的にしようとしても自分の力ではどうにもならない特定の状況に陥らないとすることができない。「雑談」は意図的にしようと思えばできるから前者に当てはまるけど、普通は事後的に「雑談をしていた」というようにみなされるものだ。「雑談してください」は哲学的な意図があっての無茶振りだったのだろうか(深読み)。

・福岡先生が『運命論を哲学する』を読んだ上で「入不二運命論は”あるようにありなるようになる”というけど、例えば癌を宣告された人にもそういえるか?」という質問をする。それに対して入不二先生は「一般的に運命論は因果論と関連的に語られるけど、運命を因果から解放するため(切り離すため)に論理的運命論を考察した」と答える。

ーこういう、『災害や病気など悲劇的な出来事を体験した人に対してもそう言えるか?」のような質問は批評家の佐々木敦さんが「最強の運命論」を提案したときも、繰り返しされていた記憶がある。論理的運命論では取り上げる出来事は任意である以上、全ての出来事は等価になるはずで(「癌になる」ということも「今、コップの水を飲んだ」ということも出来事としては全て等価に扱う)、「ある悲劇的な出来事」というかたちで現実の出来事を取り出すことはできないんじゃないだろうか。そもそも、ある出来事に悲劇性を読み解くのは解釈(認識)の問題だから論理的運命論においては意味をなさないのではないかと思う。とはいえ、生物学者(科学者)が人間の認識から全く離れて思考をすることは殆どないと思うので初めの質問から生物学者(科学者)と哲学者の差があらわれた気がした。

・潜在しているものが現実として立ち現れるのではなく、潜在しているものも含めて現実である。(入不二)

ー「潜在しているものから現実が立ち現れてくる」という考え方は一般的にもそう考えられることが多い思う。「潜在」しているものも含め「現実」であるというのは、一般的に「現実」と捉えられているものの強度をより(というか最高純度まで)上げていて、潜在的なもの含め現実というと、何を言っても「それが現実」というように現実が外側から全てを包み込んでしまう。もっというと「内」「外」も区別が生じないような「ただ一つ」のものが現実なわけで、ここらへんは入不二運命論の重要なポイントだと思う。

・動的平衡は正確には平衡と非平衡の動性のことではないか。(入不二)

ー「動いて平衡を保っているわけでなく、平衡と非平衡の状態を繰り返すその動性こそ生命活動の本質なのでは」という入不二先生に対して福岡先生は「意味としてはそれで正しいけど動的平衡のような四字熟語の方が語感がいいから」と返してした。

・病気がデフォルトで健康であることがうまくいっている状態と考えるべき。(入不二)

ーイベント中の会話で一番、人生論や自己啓発として使える言葉だったんじゃないかな。そういう意図はなかったとは思うけど、うまくいってないことを標準と考えていいんだなと思えて少し明るい気持ちになった。

・福岡先生は「生命があるから時間を生まれる」といい、それに対して入不二先生は「時間があるから生命が生まれる」と答える。

ーこれは最後まで対立したままだった。直感的には「時間という概念は認識するものがいなければ存在しない」という見解も「何かの認識とは独立に時間(的な概念)は存在する」という見解もどっちも納得できてしまう。ただ、例えば宇宙の歴史(ビックバンが起きて宇宙が誕生したとか)のような生命が誕生以前のことを語る場合でも、何かしらの時間概念を用いなければ捉えることができないと思うんだけど、「生命があるから時間を生まれる」という立場に立つ場合、それをどう説明するのだろうかという疑問も湧いた。質問が可能なら福岡先生に聞いてみたい。それで思ったことだけど、「宇宙は150億年前に誕生した」のような言い方も不可思議なものではある。「一年」という時間の尺度は地球でしかありえないものなのに、その尺度を用いて宇宙規模のことを考えているわけで、もし別の知的生命体が他の惑星にいて時間的な概念を持っていたとしても「一年」という基準の時間の単位を持たないかもしれないし、持ったとしてその長さにはズレが生じるはずで、別の惑星の知的生命体が宇宙誕生の歴史を語るにしても地球にいる人間が編纂したものとは全く別のものになる可能性もある(というか違うものになるだろう)。でも、「一年」という尺度が客観的に定まってしまえば、人間不在でもそれを基準に考えることは可能ではあるし、地球があってそこに人間が誕生したことでしかありえない基準と尺度を用いて宇宙の誕生を考えることができるといえばできるとは思う。それなら、「生命誕生後の概念を用いて生命誕生以前を思考することは何の問題もない」というようなことになるのかな。

・『運命論を哲学する』の共著者の森岡先生が最後に「それが"すべてでそれしかない"という現実性の問題を語ることも、結局は入不二さんの脳によってなされている」というようなことを言っていて、入不二先生は「形而上的なレベルではそれを考えることができる。外側のものを内にいれるということを可能にするのも形而上的なレベルがあるからだ」というような返答をしていた(ここは全く理解していないため言ってる内容は全然違うかもしれない)。

ートーク終了後、入不二先生に「形而上的」と「現実性」の違いを質問した。1分くらいしか話せなかったし、あまり理解できなかった。森岡先生の話は、論理的運命論(入不二運命論)では人間の認識をすべて取り払った上で実在世界をとらえようとしているけど、それでも「言語」や「身体(脳)」を用いて思考する限り人間(の認識)の内に入ってしまうのではないか、ということだと理解したんだけど、形而上的なレベルであればそれが可能みたいなことでいいのだろうか。

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イベント終了後、知人と三人で居酒屋へ行った。イベントの内容や意識やエントロピーについて2時間弱話した。エントロピーについて熱く話していたら夜11時閉店ですと言われ外へ出た。熱い状態は冷たい状態(閉店)に変化するというエントロピーの法則を体現してしまったかのようだった。


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