その線は水平線



「心が震える」

こう思える経験をしたことがあるだろうか。

僕の「心が震える経験」は、西川美和監督の「永い言い訳」という映画をみた、ときだ。

映画が終わって、エンドロールが流れた始めたけど、席を立てなかった。

このまま明るい場所にでてしまえば、自分の泣きさらした顔を、大勢の皆様にさらしてしまうことになる。

言葉では説明できないんだけど、心の奥底から涙が溢れてきて、身動きがとれなくなってしまった。

この「永い言い訳」について、何か書き留めたいと思いながら、できないでいる。それを、説明できる適切な言葉が、見つからないというのが、真実なのかもしれない。

おそらく、説明できる適切な言葉が見つかったとき、「永い言い訳」については書こうと思えるのかな、とひとまず寝かしてある。(別に誰も待ってへんねんけどね)

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さて、みなさんには、「好きな」アーティストっていらっしゃいますか。

僕にはいつも新譜を心待ちにしているアーティストがいるのだけれど、それが表題の曲「その線は水平線」をリリースした「くるり」なんです。


「その線は水平線」を聞いて、また、心が震えてしまったのである。


その「心の震え」を、なんとか言語化できそうなので、書いてみようと思う。(うまくまとめられるかなぁ、、好きなアーティストについては、下手な文章を書きたくないんだ。)

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「その線は水平線」は、くるりの名曲「HOW TO GO」につらなるストーリーだ。

多くのくるりファンの方たちも、そう感じたのではないでしょうか。

「HOW TO GO」でのメッセージ

「いつかは想像を超える日が待っているのだろう」

「でも僕は君の味方だよ。いまでも小さな言葉や吐息が聞こえるよ」

というのは、自らビックムーブメントになろうとする意思表明であり、ファンへのメッセージでもあったと思う。


「HOW TO GO」から、15年たった今、その彼らの現時点でのHOW TO GOを、メッセージとして伝えることではなく、より普遍的な形にして、心の奥底に届けようとした。

そんな楽曲だ。

そして、見事にその意図を達成している。


MVを視聴したのだが、「永い言い訳」を見た時と同じように、その場から動けなくなった。エクセルシオールカフェの窓際で、ひそかに泣いていたおっさんは僕です。

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「その線は水平線」はくるりファンならおなじみの「キューン」というテープ音から始まり、大きくひずんだギターサウンドが流れ出す。尋常じゃなくひずんでいるのだけれど、決して耳に「痛くない」サウンドはさすがだ。

大きくひずんだバッキングと、ロングトーンのギター、ミドルテンポのBPMで構成されるサウンドは、HOW TO GOのそれと、よくにている。


また、この曲は2パターン収録だ。

それぞれ、参加ミュージシャンが違う。

特にM1には、屋敷豪太ら、くるりが制作拠点を移した「京都」を基盤にしている、アーティストと組んでいる。

「HOW TO GO」と同じようなフォーマットの曲を、「「今」のくるり」で、再現した。

フォーマットは同じでも、「現在」を取り込むことにより、さまざまな表現ができるし、それは音楽としての絶対的な「力」を持っているという意思。

この楽曲の作り方自体が、岸田繁の音楽制作の「HOW」への、意思表示になっている。

でもその歌詞世界は、「HOW TO GO」とは、まるで違うものになっている。

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「その線は水平線」


という言葉は、映画でいうと「ロングショット」だ。

いや、ロングショットでしか、撮り得ることのできない「景色」のことだ。


水平線とは、ある地点から「遠くにいることであらわれる「効果」」のことだと思う。

僕からは水平線に見えるけれど、もし、その水平線に船があったとして、その乗員からは、同じ水平線は見ることができない。


水平線を作り出しているのは、自分という視点で、水平線という物体は「存在しない」

岸田繁は、「そういうこと」を伝えようとしているのか、そんな考えが思い浮かんだ。


ここで、MVに目を移してみたい。

http://www.quruli.net/suiheisen/

このMVは、三つの視点で展開されていく。

1つ目は、カメラに向かって走っている自分

2つ目は、砂浜でスコップを持ち、穴を掘っている自分

3つ目は、砂浜でダンスを踊っている自分


僕が感じたのは、どの視点も、「自分自身ではない」ということだ。

自分自身は、その3人を移している「カメラ」自体の視点だ。それは、水平線が「ロングショット」でしか捉えられられないという事実とよく似ている。

「何かを見ている」ということでしか、見るという主体を構築することはできないのだ。

自分(カメラ)に向かって走っていた「自分」は、ある時その歩みを止めて、振り返り、水平線に向かって走り出す。

自分ではなく、さきの水平線を見据えて、笑いながら、まっすぐと駆け抜けていく。

スコップで穴を掘っていた自分、ダンスを踊っていた自分は、その走りさる自分を、茫然とした表情で見送る。

おそらくその2人も、見えない何かを求めていた。

でも、いくら自分の中で穴を掘っても、自分の中で心を踊らせていても、水平線にはたどり着くことはできない。


水平線にたどりつく手段は、水平線に向かって「新しい靴を履いて」、「地に足をつけて」、「歯を食いしばって」、走り続けることしかないんだ。

その先には、「幸せのオンパレード」が待っているかもしれない。

疲れたら「太陽が涙を乾かしてくれる」

そんな、少し茶化したエールを送りながら、「飛び込んでしまえよ」と、背中をぐっと押してくれる。「君の前では笑顔でいたいんだ」と、手を差し伸べてくれる。


水平線に向かっていった「自分」は、「自分(カメラ)」からフェードアウトしてしまうとこで終わる。


その走り去った自分は、新しい「自分」だ。


「その線は水平線」は、くるりには珍しく「フェードアウト」で終わっていく。

水平線を目指す旅は終わらない、そのことを暗示するように。


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いかがだったでしょうか。なんとか書ききれたかな。

僕の文章を読むことで、少しでもこの「その線は水平線」の世界が、広がってくれれば幸いです。

この曲は、是枝監督の映画「奇跡」に提供される曲のリストに、一度は入っていたそうだ。是枝監督と言えば、僕がこの曲同様に心が震えたと言った「永い言い訳」の監督、西川美和監督の師匠にあたる人物だ。

(是枝監督の作品ではないのだけれど、、)

またこのMVを撮ったのは、是枝監督の助監督も務めた「遠藤薫」。

この才能にも要注目だ。


岸田繁、西川美和、2人の作品に、共通のなにか、そして、僕の「心を震えさせた」ものの、正体は、何なのだろう。

僕が知る限り、岸田繁というミュージシャンも、西川美和という映画監督も、東日本大震災によって、「芸術」に何ができるのか、悩みに悩んだアーティストだ。

そんな二人がたどり着いたのは、芸術の役割が、見果てぬが、「幸せなオンパレード」である水平線を、また、そこに向かうしっかりとした「足取り」を、提示すること、そして何より、そうすることで「一緒に水平線まで歩いて行ける」という「リスナー・視聴者への圧倒的な信頼感」だ。


これが伝わってきたとき、僕の心は、震えたのかもしれない。


岸田繁は、新曲プロモーションのラジオの中で、「自分のピュアな部分を見せていきたい」と語った。それは、リスナーへの絶対的な信頼がないとできないことだ。

そんな人の出す新曲が、毎回楽しみなのは、当たり前ではないか。


この文章を書いていて、僕の中で、水平線に向かって走るsumireさんと、「永い言い訳」の作中で、ママチャリを使って坂道を駆け上がる、「幸男くん」がリンクした。

「永い言い訳」についても、何か、書けそうな気がしてきた。

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