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「パクリやめろ」という声が上がらないような投稿サービスを志向する

「パクリ」は本当に悪なのか。

プログラミングでゲームを作るサービスを運営する立場から、パクリ問題について真剣に考えてみました。


ハックフォープレイのユーザー数はここ数ヶ月毎月5割増しのペースで増加しており、休校の影響も重なってステージの投稿数が1日あたり30〜50個とかになっています。1日に1個以上投稿する子もざらで、改めて子どもの創作意欲は計り知れないなぁと感じる今日この頃。

そんな中最近増えているのが、投稿作品をオマージュした作品の投稿。多くはゲームのアイデアをマネしたもので、例えば「釣りゲームが流行ってる」みたいなことがサービス内で起きているのです。ハックフォープレイを投稿サービスにしたのはユーザー同士のマネしあいを促進するためなのでこれは(少なくとも僕らにとっては)望ましい結果であり、嬉しい出来事です。

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ハックフォープレイユーザーによるステキな作品。右下の2つが釣りゲーム


一方、これは今に始まったことではないですが、そういった作品を見ると「パクリだ!パクリやめろ!」と言う子も中にはいます(全員ではない)。これは僕らが地元で開いている CoderDojo Kanazawa でも昔から観測されていて、何度か苦い経験もしてきたので、最近ではこのように答えています。

「パクリっていう子がいるけど、ハックフォープレイはパクリ推奨だから別にいいんだよ。」

子どもたちは僕らがサービスの運営者だと知っているので、僕らがそう言うと、それ以上何も言わなくなります。

でもそれって、まるで大人が都合の良い理屈を子どもに押し付けているようで、すごく後味が悪い。僕の言う「パクリ推奨」というのは相互扶助の考え方に基づいているので、本来は「助け合いっていいね!」と思えるようなもののはずなのに、「君だけ助け合わないなんてダメだよ」みたいに言うのは大人としてどうかと思う訳です。ユーザーが子どもだから余計に悩む。

理屈でねじ伏せるのは簡単です。

「君だって、任天堂のゲームをパクってるでしょう?」「パクっちゃダメなんてルールあるの?」「パクられたくないなら限定公開にしなさい」「どうやってパクったって証明するの?」

これらは理屈は通っているかも知れませんが、言われた相手は傷ついてしまうかも知れません。どちらが加害者でどちらが被害者ということもなくただお互いを傷つけ合うだけの不毛な闘争です。実際「パクった」「パクってない」が原因でよくケンカになります。というか、ゲームを作っててケンカになる原因はほとんどそれしかありません。

この問題は早めにカタを付けないともっと酷いことになります。今は「僕のステージをパクるな」と言う声しか上がっていませんが、いずれ「X さんのステージは Y さんのステージのパクリだ!パクリやめろ!」という声も上がって来ることは想像に難くないからです。パクリ警察の誕生。嬉しくない…


「パクリ」は本当に悪なのか。

「パクリ」と言う言葉の意味は、「ものを盗む」と言う意味の「パクる」から来ているそうです(Wikipedia)。アイデアやデザインなど、形のないものがマネされたときに使う言葉だと思います。

ものを盗むと相手が損害を被ることは明白ですが、形のないもの(=情報)を盗むことが相手に損害を与えるとは限りません。情報はコピーできるので、盗まれても、持ち主の手から消えて無くなったりはしないからです。

ソフトウェアの世界にはオープンソースと呼ばれる仕組みがあります。これは一部の人々が「パクリ」と呼んでいる行為を敢えて肯定し、全体の利益が翻って作者本人の利益にも繋がっていくという考えに基づいています。これ以上深くは説明しませんが、個人的に好きなツイートを引用しておきます。

ウルトラどうでもいいですが僕はこのように考える人を小説「星を継ぐ者」になぞらえて「ガニメアン」と勝手に呼んでいます。ガニメアンが登場するのは2作目の「ガニメデの優しい巨人」なのですが、1作目から読むことを強く、強く推奨します。「星を継ぐ者」しか読んでないよ、という方。悪いことは言わないので今すぐ Kindle などで「ガニメデの優しい巨人」を買って読んでください。ガニメアンについては、いつか記事を書きたいですね。


閑話休題。

なぜパクリが悪と言われるのか、僕なりに考えました。そもそもパクることがネガティブな意味として使われるようになったのは、創作物が消費されるコンテンツとして流通するようになったからではないでしょうか?

普段の生活の中で、小説、イラスト、音楽などといった創作物を、1冊あたりいくら、1曲あたりいくらとお金に換算していると思います。そのお金は創作物の作者にも入るので、作者の利益になります。このような仕組みの上では創作のアイデアをパクることは作者の利益を奪うことにつながります。ここまではいい。

これを更に一般化すると「とにかくパクリはダメ」という思考になります。言葉の印象に引っ張られているせいかも知れませんが誰かが既に作ったものに似ているものを創ること(公開すること)そのものがモラルに反する行為だと捉えている人が一定数いるようです。

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この認識の根底に、「新しいアイデアを思いつくことは一部の限られた才能や奇跡の閃きによるものである」という、くだらない消費者根性を感じるのは僕だけでしょうか。悪意を持って利益を奪う行為は当然許されませんが、そうでない創作活動は、もっと自由なもののはずです。作者から何かしらの利益を奪っているわけでもないのにただ似ているというだけで「パクリ」と言って非難される謂れはないはずです。

そもそも、意図していなくても他人の創作物と似てしまうことは必然です。人間の脳みそは他人の作品を見て学習しているのだから、一見新しく見えるすべての創作物は大いなる流れのどこかに位置する点と捉えるべきです。

コンピュータによる創作のデジタル化と、インターネットによる気軽な投稿サービスの台頭により、素人による創作物がたくさん世に出回るようになりました。出版という大きな壁を超えられないクオリティでも、何千、何万人といった多くの人の目に触れることになるので、当然、似たような創作物も沢山タイムラインを流れることになります。そこに出版物と同じような期待値を求めても仕方ないでしょう。コンクールの審査員じゃないんだから。

そして今回のタイトルに結びつく。

「パクリやめろ」という声が上がらないような投稿サービスを志向する

これまでの投稿サービスでは、むしろユーザー同士が影響を与え合うことでより活発化し、新たな文化を作り出してきました。パクリ警察の出現はこのような文化形成を阻害するでしょうし、文化圏が小さい内から積極的に運営が介入して、より影響を与え合うように促す必要があるでしょう。

例えば、いいね!ボタンならぬ「マネしたい!」ボタンを設置することで、「あなたの作品を10人がマネしたい!と言っています。」と作者に対してフィードバックできます。そんな通知を見たら、むしろマネされて嬉しいと思えるかも知れません。

最終的には自分の創作活動が誰かに影響を与えているということをユーザー自身が自覚できるようになっていくようなサービスにしていけたらいいなと思います。自分が創るゲームを面白くするために、面白いゲームを研究するのも良い。他者と比較することで自分の現在位置を知り、一歩先の目的地を目指して進む。そうして出来た足跡がやがて道になっていく。人類が積み上げてきた歴史の上に薄い膜を載せるような貢献を素晴らしいと誰もが思えたのなら、やがて人類は一つになれる。これこそが、人類補完計画なのです。多分。

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