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検査にびくびくし、文書化に追われる監査でいいのか

監査人は、検査に備えよ、同じ指摘を受けるな、もっと文書化しろ、と追い立てられています。こんな監査でいいのか、と疑問に感じている人は多いのでは?


てりたまです。
監査法人で30年強、うち17年をパートナーとして勤めました。

監査法人のスタッフから、よくこんな質問を受けました。

検査で指摘されないようにする監査、ひたすら文書化に追われる監査、これが我々が目指す監査なんですか?

なかなか厳しい問いですね。
結論から言うと、我々は検査で指摘されないために監査をやっているわけでは断じてありませんし、文書化のためにやっているわけでもありません。検査も文書化も、監査品質を向上させるための手段のはずです。

じゃあ、検査も文書化も、意味がよく分からない手続も止めてしまって、自分たちが考えるあるべき監査をやればいいんじゃないですか? そうでしょう? てりたまさんがそう思うんだったら、そうだと言ってくださいよ。

まあまあ、落ち着いて。次の問いを考えてみてください。
「我々は、自分たちが考えた『あるべき監査』をする資格はあるんだろうか?」

守破離」って聞いたことありますか? これは武道や茶道、芸事で言われることで、修行のステージを表しています。
 師匠の型を学び、守る
 師匠の型を破る
 師匠の型から離れ、独自の境地を確立する
ポイントは、「守」ができるようになってから「破」があり、そのあとに「離」がある、ということです。

監査に話を戻すと、「守」とは、監基報を含めた監査の基準にしたがって監査ができている、ということです。
そして、検査の対象は「守」ができているか、ということであり、文書化に追われているのは「守」ができていることを疎明するためです。
検査で指摘されたり、文書化が不足している状態は、「守」のステージをクリアできていない、ということになります。

いつの間にか、監査の基準に定められた水準未満の監査がデフォルトになってしまい、それ以上の水準を求めるのは理不尽だ、という雰囲気になっていないでしょうか?
あるいは、定められた水準が十分に頭に入っていない状態で監査してしまい、審査や検査で指摘されてようやく水準を知る、ということはないでしょうか?

もっとも、監査の基準、具体的には監基報の要求事項がそもそも理不尽、ということはあるかもしれません。
それにしても、監基報を作っているのは日本公認会計士協会です。また、今の監基報は国際監査基準をほぼそのまま受け入れていますが、国際監査基準は国際会計士連盟(IFAC)傘下のIAASBが設定しています。
業界の外の人から見ると、会計士が作った基準に、自分たちで文句言っているの?ということになります。
この事実を踏まえると、すでに適用されている基準にはしたがい、問題があれば自らIAASBに働きかけて変更させる、これが正しい「守」の動きと言えます。

我々は「守」のステージでくすぶっていてはいけないし、「守」をクリアすることを目的にするべきでもありません。その先の「破」のステージに至って独自の発想で基準を使いこなせるようになり、「離」にまで至れば監査の達人と言われる境地を確立できるわけです。

私が、会計士試験(当時の二次試験)を勉強していた大昔を思い出すと、とんでもなく高い壁がそびえているように思えて、合格した自分が想像できませんでした。
しかし、自分の目標は合格の先にあるはず、ということを意識すると、越えられない壁ではない、と思えるようになりました。

監査の守破離も同じで、「守」のクリアを目標にしているので、難しく感じているのが監査の現状のように思います。
さらに先の「破」や「離」に思いをはせ、そこでやるべきことをイメージできれば、「守」が実現可能と感じ、実際に越えられるのだと思います。

すべての監査人を敵に回すようなことを書いていますが、私も30年以上監査をやってきて「守」レベルで終始した人間です。
「破」や「離」のイメージは見えていませんが、そこには監査を通じて今以上に世の中に貢献し、監査人が充実感に満ちて働く世界があると信じています。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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これからもおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

てりたま

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