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2024.4.16 塩が来た

 昼ごはんの献立を考えながらお米を研いでいるとインターホンが鳴った。タオルで手を拭き、慌てて玄関に向かう。個包を受け取り、ビリビリと手で紙袋の封を開けた。どこで仕入れたのか親友から塩が届いた。シンプルなパッケージに青いステッカーで商品名が書いてある。
「遠州 沖ちゃん塩」
遠州ってどこだろうと裏面を確認する。静岡だ。静岡の塩ははじめてで少しテンションが上がる。早速開封してパウダー状の塩を手のひらに乗せた。

 なぜかわが家には塩が集まる。わたしは塩が好きで、旅行やらなんやらと出かけては塩を買い求める。お気に入りの塩もあるし、お風呂に入れるためスーパーで安い塩も買う。家に遊びにきた友人は修学旅行のお土産に悩む長女に「おかんには塩買っておけば間違いない」とアドバイスをしていた。
 体調なのか気分なのか自分の中で流行もある。海の塩が好きだったり、硫黄くさいのがよかったり、岩塩や海外の塩を好む時期もあれば、ブレンドしたものにハマる時もある。わたしは料理が上手でもなければ繊細さとは程遠いが、料理によって塩を使い分けるくらいのことはする。食べ物全般に言えるのかもしれないが、ひと通りなんでも使ってみて、よく使うものがその時の自分に合うものなのだと思っていた。たが最近は、日本人は日本近海の塩がいいと基本のきみたいなロジックに思い至り、体感として感じるものがある。

 人の身体の70%は水なのだという。身体の水分の中どのくらいが血液なのか知らないが、血液の塩分ミネラルバランスは海と非常に似ていると聞いたことがある。地球の海の割合も70%らしい。
 バラバラに鳴らしたメトロノームがいつしか同じリズムを刻むように、同じもの同士は共鳴するそうだ。血液と海が共鳴するとして、血液の塩分をなにから摂取するのか。遠くヒマラヤの岩塩と近い日本の海の塩を選ぶなら、わたしは日本の海がいいと思う。素人の考えだが、近いところに共鳴しやすいような気がするのだ。
 人は土地に生かされてきたと思う。生まれた土地で作った米や野菜を食べ、近くの海で塩を作り、獲れた魚を食らって土に還る。身土不二である。日本に生まれた自分たちを作ってきたものは、日本の土地や海ではないのか。ならば遠くヒマラヤの岩塩よりも日本近海の塩を摂取したときの、空気に馴染んで境界線が曖昧になるようなわたしの体感も理解できる。

 腸内細菌と土は同調し共鳴する。腸内細菌は土である。血液と海も共鳴する。血液は海である。腸内細菌や血液はわたしであるとするなら、わたしたちは土であり海であり、地球そのものなのかもしれない。手のひらに乗った塩のしょっぱさに顔をしかめながら、下手な三段論法が脳裏を掠める。お昼はこの塩でおにぎりを握ろうと決めて、炊飯器のスイッチを入れた。

届いた遠州沖ちゃん塩
おにぎりにすると美味しかった。
肉や魚の下味にもおすすめ

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