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左でも、右でもなく、闇――書評『ダークウェブ・アンダーグラウンド』

2019年の必読書

 しばしばブログにアクセスしながらも、難解かつ高度なテキストであるためしっかりと理解できているのか読了後の私にはいつも自信がない、kizawaman02こと木澤佐登志さんの著書『ダークウェブ・アンダーグラウンド  社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』を読んだ。

 まるで重厚な映画を見ているような、暗黒世界の住人たちの壮大な物語が何篇も綴られている。とにかくハラハラワクワクするエピソードの連続なので買って読んでほしい。

 この『ダークウェブ・アンダーグラウンド』は、奇しくも拙著『矛盾社会序説』と担当編集者が同じで、打ち合わせなどをしながら同書の進捗などを小耳にはさんでいた。

 「白饅頭さん、まったくの偶然ではありますが、矛盾社会序説とダークウェブ・アンダーグラウンドが同じタイミングで世に登場することは、大きな意味がありますよ。どちらも『自由』がもたらしてきた影の部分について書かれているし、どちらもいまの時代にこそ読まれるべき本だと思います。」

 ――と、彼は自信ありげに話していた。

 ありがたいことに、私のもとには全国で待ち望んでいたダークウェブファン(?)よりもずいぶん早く、見本版が献本されていた。そして同書を一読して、担当編集がなぜそのように興奮気味に語ったのかを理解できた(『矛盾社会序説』との話題の連続性も中盤以降とくに感じられるようになるので『矛盾社会序説』が面白かった人はきっと損はしないので読むべきだ)。

 これは単なるノンフィクションではない。人間の自由、人間性の自由、そしてその自由を得る闘いを描いた物語なのだ。
 

自由への情念

 「自由」と聞いて、多くの人はなにを連想するのだろうか。

 ちかごろでは、民主的とか、多様性といった概念がセットになるのだろうか。だれもが抑圧されず、自分の存在が社会から肯定され、受容される世界――その基盤となるのが「自由」であることには疑いの余地はない。かりに自由がなければ、自分の言いたいことも言えないし、書きたいことも書けなければ、描きたいものも描けない。自分の存在が肯定されることとは程遠い社会になってしまうかもしれない。自由は私たちの社会においてもっとも基本的な価値観のひとつとなっている。

 しかし自由とは本来的には美しいものではない。だれもがacceptableな自由(への欲求)を持っているとはかぎらない。むしろ自由とは往々にして、社会の秩序を乱し、公益を損ない、倫理を攪乱する、常人がみれば反吐が出るようなものも多分に含まれている。人間が自由にふるまうことを擁護するのだから当然である。そんなヘドロのような情念を肯定することが、われわれが長い営為のなかで勝ち得てきた「自由」なのである。

 「社会の秩序・規範や公益にかなう個人の情念についてのみ『自由』としてそれを認める」――という論理は、もともとは支配者側・抑圧者側のそれであり、自由の獲得を希求しこれを擁護するものが長年打倒せんとしてきたものであった。しかし現代社会においては、もはやそれは政治的左派・右派を問わず「自由」を擁護するさいの基本的な前提となってしまった。自由を抑圧するのは右派(保守・国家主義)のお家芸と思われがちだが、現在においては左派もそうである。反差別や政治的ただしさの美名でもって、他人の自由を制限することにやぶさかではないし、自分たちの価値観にかなう情念にのみ「自由」を付与したがる。

 左からも、右からも、けっして歓迎されないどころか一片の擁護すらされず排撃される「自由」――もっとも、繰り返しになるがそういったものこそが自由の価値や尊さの基盤であることは現在においても一切変わっていない――を持つ人びとは行き場を失いつつあった。丁字路があり、左にも右にも自分の居場所がないと悟った人びとは、必然的に「闇」へと進みはじめたのだ。
 

「ありのままの」自由

 オシャレな表紙と遊び紙のあるページからさらに先へと進んでみると、「闇のAmazon」「殺人請負サイト」「人身売買オークション」「ペドファイルたちのコミュニティ」「サイバー・セックス・ツーリズム」など、おどろおどろしい文字列が目次に並んでいることを確認できる。中身を読まずとも、間違いなく反社会的なサムシングであることがわかる。

 しかしながら、しつこいようだがこれこそが「自由」なのである。あるいは「自由の本懐」といってもよいかもしれない。多様性とか寛容性といった眉目秀麗な文言と併存する自由とは、こうした暗黒のスープを煮詰めた末に生じるひと匙(さじ)の上澄みに過ぎない。

 皮肉なことに、リベラルな社会はもはや十分に抑圧的なのだ。自分のなかに備わった「ありのままの自由」を表現しこれを享受しようとすると、たちまち社会の常道を逸脱して禁止されたり処罰されたりしてしまう人びとの住処が「ダークウェブ」なのである。『ダークウェブ・アンダーグラウンド』は、たんにインターネットの奇人変人の事件録をまとめた本ではない。これは人間が本来的な意味での自由を求めるありさまを克明に描き出した記録である。
 

暗黒世界の到来

「ダーク」な思想が欧米を席巻しつつある。「右」でも「左」でもない、「ダーク」な思想の台頭。このことは、現在の欧米社会にとって何を意味しているのだろうか。

インテレクチュアル・ダークウェブ(Intellectual Dark Web:以下I.D.Wと表記)なる知的ネットワークが存在している。インターネット上で「アンチ・リベラル」な主張を展開する(元)学者や言論人のネットワークのことだ。

ダークウェブというと、通常と異なる手段によってしかアクセスできないインターネット上における特定の領域を想起される読者が多いことと思う。だが、I.D.Wは誰もが簡単にアクセスできる領域に遍在している。

(中略)

I.D.Wは明確な定義も外縁も存在しない曖昧なネットワークだ。とはいえ、彼らには一定の共通項もある。一つ目は、様々な理由から自身がメインストリームのメディアやアカデミズムから排除されているという認識を持っていること。二つ目は、科学的エビデンスの重視。

これら二つの共通項は密接に絡み合っている。彼らはこう主張する。科学的エビデンスに基づく「不都合な現実」を提示したり啓蒙したりすることは、現代のポリティカル・コレクトネスに支配されたリベラル社会では不可能になっている。それでもあえてそうしたことを行おうとする者(つまり自分たち)は、不可避的にメインストリームから外れた場所で活動せざるをえないのだ、と。

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現代ビジネス『欧米を揺るがす「インテレクチュアル・ダークウェブ」のヤバい存在感』(2019年1月17日)より引用
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59351

 いわゆる「不都合な真実」を統計的かつ実証的なデータによってくみ上げていくタイプの「闇」の言論圏の住人達と、エモ(感情)に訴えかけるポスト・トゥルース的なメッセージで広く支持を集めトランプ旋風や西欧各国における極右の台頭を下支えしたとされる「オルト・ライト(オルタナ右翼)」は、一見すると「エビデンス・ベース」「エモ・ベース」の対局性から水と油のように思われるかもしれないが、いま急速にその距離を縮めつつある。

 なぜなら彼らは「リベラルな社会(陽のあたる表向きの社会)」から、彼らの自由を歓迎されなかったからだ。政治的ただしさや社会的望ましさやリベラルな人権感覚といった概念によって自由を阻まれ、排撃され、不可視化されてきた人びとは「反リベラル・反ポリコレ(ただし親右派というわけではない)」で結託しようとしている。「リベラルな社会」はいままさに、闇の言論の旗手たちによる「不都合な真実」と、オルト・ライトたちの「エモ」の挟撃を受けて激しく動揺している。

 『ダークウェブ・アンダーグラウンド』は、私たちのありのままの姿の汚らしさ、人間がもつ情念のおぞましさ、そして自由が本来は反吐が出るほど最悪でありそれゆえ尊いものであることを思い出させてくれる。

 私たちはあまりにも美しい世界に生きすぎている。美しく生きられないもの、美しく存在できないものを遠ざけ、彼らから居場所を奪い、ときに罰して排除してくることでそれを実現してきた。

 美しい世界から遠ざけられた「逸脱者たち」の数は、最初は少しだけだったかもしれない。しかし長い年月が経ち、彼らの数はもはや一大勢力と呼べるほどにまで大きくなった。幸か不幸か、彼らはインターネットという利器を得て暗黒世界に小国連合を形成し、美しい調和で結ばれた陽の当たる世界へと舞い戻ろうとしている。

 『ダークウェブ・アンダーグラウンド』は、光に満ちた世界にいままさに闇が戻らんとしている時代の水先案内人によって書かれた、日本語の書籍としてははじめての仕事である。

 日本国内における「ダークウェブ」あるいは「暗黒言論」の端緒が、この本より啓(ひら)かれるかもしれない。

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