読書感想文(にもなってない)

村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」
について

喉の奥に何か気持ちの悪いものがへばりついているような読後感である
気になる。気になる。気になるのだ。
自力では取れないし、かと言って手で拭えそうもない。どうしようもないのだ。

そのような本や映画やアニメを年に1度お目にかかれたらラッキーだと思っている。
僕の中で膨大なエネルギーとなりうるからだ。
この時主人公の彼(彼女)ならどうした?
どのような行動を取るだろう、思考をするのだろうか
作品に染まり、あたかも実在する人物であるかのように脳内に登場人物達をイメージする
そうすれば、彼等と会話することも可能である。(全ては自分の妄想であり、中二病だとわかっているよ!)
それらの妄想空想は楽しい。楽しいので、脳を使わず時間だけがすぎて欲しい時にはいつも彼等と話して時間を潰していた

今回の作品は敗退的で救いのない闇の中の世界だと、評価する人もいるかもしれないが、私はこの時代の貪欲に上を上を目指して突っ走っていくこの傾向好きだ。セックスとドラックも酒も金も何もかもが派手で振り切っているこの感じが。好きなものは好きと、嫌いなものは嫌いだと、醜いものは醜く、綺麗なものは綺麗。穢いは綺麗綺麗は穢いとわかっていながら、混沌とした世界でそれらを切り取って自分の言葉にした小説家達が大好きだ。

さらに言うと、自分的いい小説は、あとがきも良い。解説も良い。限りなく透明に近いブルーの解説は「綿矢りさ」さんが書いていたが、その内容が凄く良かった。19の時は何もかもを吸収しようとする。その時は夜眠れなくなることも無いし大丈夫だと思っていたけれど、ある日突然世界の見方が変わる。何もかもが信じられなくなる。バックに何か悪いものが動いているのでは?と安易に世界や物事を信じられなくなる。
そして、これらを改善する為には至極平和的で信頼を形にしたような世界に触れなければならない。と。
まさにその通りである。私自身も19の時に走って走って走ったその先に何があるのかを知りたくて必死になって色んなものを見た。その後、それは突然私の世界の見方を変えた。信じること、裏切られること、死にたくなること、いろんな感情を、経験した。そして、田舎に行って優しい人達に触れてこんな世界があるんだと知った。この感情を言語化する能力。あぁ、それなんだよなぁがいっぱいあるから、自分的良い小説を読むのが好きだ。

エモい。という言葉について、彼と話し合った。私はエモいという漠然とした言葉で片付ける人のことが嫌いだ!と強気で話したけど、
彼によると、エモい。とは、形容しがたい何かを各々の感受性で受け止めるために必要な言葉なのでは?という解釈をしていた。あえて形の無いものでゆとりをもたせる表現をすることは悪いことではないと。
たしかに、たしかに、エモいなぁ、と言われて、そうやなぁ。と思うことがある。し、これがエモいか。とわかる。わかってしまう
エモい。には形がなく、エモい。には線が見えない。それを分かった上でエモい。は今の時代に必要な言葉なのか。なるほど、と思う。エモいという言葉があまりにも安易に使われている現場を目の当たりにし、勝手に嫌気がさしていただけのただの八つ当たりだと彼は見抜いていた。

言葉は移り変わり、生み出されたり消えたりする。言葉を大切にすることができる人は信頼できる。でも、その大切にするってどういうことだろうか。
わからない言葉が出てきたときにちゃんと検索する人が好きだ。言葉を蔑ろにしない人が。私自身、小説を読んでいて、疾走感のある小説だとついついわからない言葉を飛ばしてしまいがちだけれど、その言葉を使った作者の意図を知るためには理解しなければいけない。文字の形だけで読んではいけない。
しかし、その感覚で読むことも大切であるのも知っている。漫画のように。文字もまた、それぞれの効果により、平面ではなく、奥行きや、色のようなものを持っていると思う。

後半は自分のために書いていて、何を書いてるか、何が言いたいかわからんくなったので明日には下書きに送るであろう、チャランポらんな文章ができた

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