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父のカレー

私はお坊さんである。
師僧である私の父は喫茶店のマスターでもあり、喫茶店は両親二人で営んでいた。
店舗の裏が住居で、お寺には必要な時だけ通う感じだったので、むしろ、時々住職でもあったが正解か。
喫茶店と言っても、刺身定食なども提供していて、夜にはほぼ居酒屋になってしまう、周りに店舗の少ない田舎ならではのようなお店だった。

父はもともとお寺の生まれで4男3女の次男だったが、二十歳頃に自分の父を亡くした際、お坊さんの資格を取り、住職となった。その後、四男が正式に住職になることになったためお寺から離れ、長女が嫁いでいた横浜の薬局に就職。母と結婚し、私が生まれた。ところが、横浜と北埼玉の母の実家との往復が大変だということで、母の実家が心配し、実家近くに叔父が経営していた喫茶店を譲り受け、喫茶店のマスターとなったのである。
どうなんだ、この流された感。

その20年後、お寺を継いでいた四男が夭折し、結局再度、住職になるのだが。

喫茶店と住居が繋がっていたため、私が子どもの頃は家に帰れば、必ず両親がいた。
当時は、おやつがわりに食パンやご飯を食べた。
トーストやサンドイッチに使えるように食パンはカットしたものではなく、1本(3斤分)丸々で購入していたため、お腹が空くと自分で好きにカットし、トーストやホットサンドなどを作った。
カレーも大きな鍋に常備してあり、3日くらいで新しく作る感じだった。
お店でのカレーの作り方は、業務用のスパイスミックスを大量のラードで炒めて固め、フライパンいっぱいのルーを作る。それを炒めた玉ねぎ、ニンジン、じゃがいも、豚肉に水分を入れルーを溶かしてカレーにしていた。
ルーを作っている時のスパイスと油の香りは、他ではあまり嗅いだことのない独特な香りだったと思う。

そんな父のカレーを私は嫌いではないが、それほど好きではなかった。当時は豚肉が臭くて苦手だったので、ラードも苦手だったのかもしれない。
たまに母が作ってくれる市販のルーのカレーの方が好みだったが、当時は麺つゆですら出汁をとり作っていたので、市販の麺つゆを今でも母は“インスタント”と呼ぶ。市販のカレールーも“インスタント”なのだ。子ども心にもなんとなく体に良くない食べ物だという罪悪感がついてしまった。だから、余計に美味しく感じたのかもしれない。

小学生の頃、7月半ばの日曜日に夏祭りがあった。夜には商店街を神輿が練り歩く。他の地域の神輿と近づくと神輿同士が競いあい、迫力があった。
昼間は小学生向けの子ども神輿もあった。子どもなりにエスカレートし、水風船や時にはロケット花火で喧嘩したことを思い返すとよく怪我をしなかったものだと思う。
神輿を担いだ子どもたちは商店街のお店でお昼が食べれた。ラーメンが多かったように思うが、一度だけ、うちの喫茶店が当番になったことがあった。
その日、父は朝からルーを仕込み、カレーを作っていた。子ども心にもそれが、普段とは違うカレーであることが分かった。
神輿が昼休みになり、自分ちの喫茶店へと向かう。普段は店内で食事することなんてないので、なんとなく気恥ずかしく、それでいて誇らしく、嬉しくもあるという複雑な感情の中、父のカレーを食べた。

めちゃくちゃ美味しい!

丁寧に作られたことが分かるし、ラード臭はなく、普段は2日目のカレーの方が好きなのだが、むしろスパイスが香って美味しい。
ルーティーンで作るものではなく、子どもに食べさせることを考えて作ったからこそなんだろう。

そんな、大満足で神輿に戻る道中、上級生たちの「子ども向けに作っているから辛くなかったね」との不満げな会話を耳にした。
ああ、そうなのかと残念に思う反面、それは僕たち専用に特別に作ってるってことなんだよと悔しくてたまらなかった。
少し辛くない分、いつものとは違うんだ!

父は3年前に他界した。
あのカレーはもう食べられない。
流される雲のような人生。結局、父自身は何がやりたかったのか。
若い頃、父のことをそんな風に残念に考えていて、結局、ほぼ父の人生をトレースしている自分がいる。

今が良ければそれでいいのかな。

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