Comfort Zoneという魔物

私のいる某グローバル企業ではTalent Meetingという会議が定期的に行われる(基本的に四半期に一度だが、実際に集まって議論するのは半年に1回程度)。

グローバルからその事業部のチームマネジャーが集まって、その四半期に昇進させる者、PIP(People Improvement Plan、つまり改善プラン)に入れる者、昇進させる者もそうでない者も含めてTop Talentの確認と育成プランを話し合う。

つまり日本という1Regionだけで決めるのではなく、全世界の横並びで昇進とかPIP(結局は解雇する者)を決めていく。そのため各国からManager陣が実際に集まって喧々諤々議論するというわけだ。

昇進させる者を決めるミーティングでは、既にリストが作られてあって、候補者の昇進させるポイントや、逆にこのタイミングで昇進させないポイントを列挙した資料が作られてあり、事前にManagerには配られて読み込まれている(実際15人くらいのそれぞれ6ページのWordで書かれたNarrativeを読むのは結構時間がかかるので、日本からの飛行機の中でほぼずっと読み込むことになる。。)。

読み込まれた上で、それぞれが質問をしていき、何か致命的なポイントや疑問を持つ声が多ければ昇進はその場で見送られる。

そこでどんな議論をされるか、という点は、そのままその組織・会社が重視するポイントがわかるので折に触れて今後もNoteに書いていきたいと思うが、今日の論点はComfort Zoneという一側面。

昇進を議論するミーティングなので、明らかに誰が見ても昇進させるべき人であれば議論にならない。逆にどう考えてもこのタイミングで昇進させるべきではない人も議論にならない(実際にはそんな人をManagerがリストに上げてこないのでいないけど)。

議論になるのは、その者が達成してきた業績の話がメイン、「本当にそれは優れた業績なのか」になるのだけど、たとえ業績が問題なくハイレベルで達成できていても議論になるときがある。

その者がいくら目標を達成し、優れた業績であっても、その領域に安住していれば昇進させない、という点があるのだ。それがComfort Zone。

日本ではGeneralistとSpecialistという区分でよく語られるので、Specialistはその領域で専門性を極めて業績を出していれば問題ないだろうと思われがちである。

しかし、この某グローバル企業では、それでもいくら業績を出していても1年前も同じように褒められていたのであればそれは「Comfort Zoneに安住していてさらなる成長やより大きな業績貢献へのChallengeを自ら追求できていない」となって昇進させないベクトルが働く。例えばAIサイエンティストが優れたMachine Learningモデルを半年前は営業部門向けに、前の四半期はMarketing部門向けに構築したとしよう。今回Operation部門向けにまた優れたMachine Learningモデルを実装して展開したとしても、昇進ミーティングでは「本当に彼は成長しているか?」「もっと貢献できる分野へ挑戦できているのか?」「自チーム以外への影響力を年々高められているか?」という質問が飛び交う。

例え専門性の高いAIサイエンティストであっても、モデルを作るだけではなく例えば若いインターン生に対して教育プログラムを企画・展開したり、他事業部門と協業するプロジェクトを展開してみたり、これまでのモデルをDocument化して社内E-Learningツールに昇華させたり、プロジェクトリーダーとしてManagementをしながらモデルを構築したり、といった次なる挑戦をしていくことを要求されるのだ。

これが意外と納得できない人はできない(どこの国の人でもあるので日本人特有というわけでもない)。なんでこんな普通の人ではできないAIモデルを次々と構築し業績を出しているのに大して評価されないのか、という言い分である。(断っておくがAIサイエンティストは既に高給なので、優れた技術者を薄給で馬車馬のように働かせて評価しないとかいう世界ではない。より高給な次の職位に昇進させるかという点である)

世界で戦うグローバル企業ではどれほど優れた業績であっても次の期にはさらなる大きな業績か、広げた領域で影響力を行使するか、し続けるしかないのである。

翻って我々が教育現場で、ある専門性を追求する子がいたらどうなるか。例えば歴史が大好きな中学生がいて、なんでもかんでも歴史のことを深く学び脳内のデータベースにあらゆる歴史の話や蘊蓄が詰まっているとしよう。大人も驚くほどの知識と、優れた解釈ができる子だ。その才能を伸ばしたいと大人は思うので、本人がまったく興味をもたない数学を強制的にやらせるかという判断を迫られる。また歴史の造詣については「好きなようにやりなさい」と言ってしまい放置していればいいのではないかと思ってしまう衝動にかられる。

それでも大人としては「歴史を深く学んでいるなら、例えば自分の言葉でエッセイにして書いてみてはどうか?」などとやはりComfort Zoneに安住することなく進化していくことをGuidanceするべきだと思うのだ。あるいは「新たな歴史番組の企画をTV局に送って提案してみてはどうか?」とかやはり広がりを勧めるのがいいのだろう。そうでなければいつしかその子は「歴史が得意で褒められる」ことに安住してそのComfort Zoneから出たがらなくなる可能性すらある。TV局に提案書を送ってけんもほろろに採用されない事態を怖がってしまうのだ。

さかなクンの例はよく、本人が好きなことをとことん見守っていれば才能が花開く例としてよく出されるケースであり、直接会ったわけではないがさかなクンの母親など本当に素晴らしい子育てだと思う。たださかなクンの場合でも本人が単なる好きだけではなく、絵にしてイラストレーターとしても素晴らしいし、そもそもTVチャンピオンに出演して優勝を狙ったり、またあの帽子を被ってキャラを作ったり(実際に作ったのか素のままか存じ上げないが当初はかぶっていなかったそう)、魚の知識をベースに、魚の面白さを世に伝えるための広がりを本人がしてきているのだ。周りのGuidanceがあったのか本人がそういう指向性があったのか、出来れば実際にお会いして聞いてみたいものだが。

いくら専門性を追求してもさらにそこから少しづつでも広げていくこと。これはグローバルな環境でなくてもどこでも求められていくものだし、教育現場でも常に子供達にその指向性に「慣れて」いってほしいと思う。何か褒められてもそこに安住してはいけない。明日は今日より一歩進化してみよう、明日は新しい失敗を一つしてみよう、と。

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