「成人式」の頃、私は「大人」だったろうか

この写真はわたしが20歳のときのプロム(通常高校卒業時のパーティをさすが、ここでもこう呼ばれていた気がする)で恩師の新堀先生と撮影。

2004年3月6日。

成人式には行かなかったけれど、わたしはこの日の母校のパーティにだけは行きたくてかなり無理して、京都から帰ってきた。

思い返すと、このときの自分はまだ母をなくして1年も経っていなかったのだ。

果たしてこの頃の自分に「あなたは“大人”だと思う?」と聞いたところで、「はい」と即答できただろうか。きっと「否(いな)」である。

周りの大学の同級生たちは、親からの仕送りや、送られてくる食材の入った小包みの話、実家に帰るといかに楽なのかといったことを話していて、わたしからすれば日常会話は拷問のように感じられていた。

博士課程の研究「死別を経験したヤングアダルトの社会経済的影響」としているのも、19歳や20歳そこらのわたしにとって親をなくしたことは大きな影響があったからで。「大人」をまだまだ必要としていた。支えてくれる大人。それは恋人や友人が支えるには限界があり、大人の力というのは、大きい。わたしは幸いなことに、最終的には多くの大人の支えがあって大学を卒業し、今がある。生きることもできた。

成人の年齢が18歳になったところで、果たして18歳で「大人を必要としなくなるか」というと、あやしい。

だから「ヤングアダルト」という過渡期に焦点を当てている。「大人」と「若者」の境目。「あわい」といってもよいのかもしれない。

家族をなくしたこの世代の社会的・経済的影響は目に見えにくい。心のケアは目に見えないけれど、なんだか必要そうに思われている。グリーフケアが日本で「心のケア」や「分かち合い」、「共感」「寄り添い」といった形で広まっているようにわたしは感じているが、本当に必要なサポートは何であるのか。もちろん個別的であるが、見える化してきたいと心から願っている。向こう3年の修行。

今週も「大人の定義」探っていきます。

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