【おすすめ】「行誡と弁栄展」〜 5/19 @回向院

昨日、両国・回向院さまで開催されている「行誡と弁栄展」にいってきました。この展示はとっても簡単にいうと、「明治期に活躍した2人の最高に素晴らしいお坊さんたちがかかれた絵や書」がいっぱい見られるものですが、その絵や書を通じて、「お坊さんってなんのためにいるんだろう?」ってことを考えさせてもらえます。

仏教に興味がなくても、純粋な絵や書として鑑賞するのもできますが、その「生き方」「あり方」にふれることで、味わいが深くなる展示です。

大切な友人であり、リヴオンの大事な仕事のパートナー 吉水 岳彦 (Gakugen Yoshimizu))さんがずっと夜も寝る間を惜しんで準備をされていましたが、そんな疲れも見せず、本当に嬉々として「尊敬する大好きなお坊さんたち」を紹介してくださる語りに、たくさんの学びをいただきました。タイミングがあえば、岳彦さんの解説もみなさま聞けますよ〜♪

19日まで開催されているので、ぜひ多くの方に足をはこんでいただければと思って、感想を。ちなみに長いです。

(回向院さまは兄の葬儀も助けていただいたお寺さまゆえ、本堂入った瞬間、涙ができてきました。思いがけず、グリーフワークになりました。)

グリーフ(死別・喪失からうまれる反応、感情、プロセス)の視点から書いています。偏りをご容赦ください。

・アーティスト性と身体性とグリーフケア・

会場に入った瞬間にもうふわっと、包まれるように、かかれた絵や書のもつ表現の力を感じる。

一枚、一枚がとにかく、丁寧にかかれている印象で、ただただ息をのむほど美しいものもあれば、ゆるきゃらみたいに可愛らしいものもあれば、独特の字とその字の流れが印象的なものも…その豊富さ、幅広さに感動する。これだけのものが集まるのは、弁栄上人百回忌にあたってのことで後にも先にもないような貴重な機会になっている。

弁栄上人は、娘さんを亡くされて苦しむ親御さんに娘さんの絵を描いてお渡しされたという(何もご覧にならないのに、夫婦が驚いて口がきけなくなるくらいそっくりだったそう)。その絵も今回の「行誡と弁栄展」に「円相観音菩薩坐像」として出展されている。

この話を聞いて「弁栄上人、絵がうまいからできたんだよ」「娘そっくりになんてかけないよ。弁栄上人だからできたんだ」と思うことなかれ、である。大事なのは、そのプロセスにあると感じた。

わたしが思うのは、すべての人は「アーティスト」だと思っていて。内にもっているそのものを、表現するか、しないかだけのことなのだろうと。これはリヴオンでグリーフワークをアートをつかって行うことを重ねてきて強く感じている。そして表現、アートは、できた結果がどうこうというより、そのもののプロセスも大事である。

もちろん「絵」は日本の美術により「上手/下手」と自分や人の描いたものにジャッジをいれてしまいます。
「わたしはあんまり上手じゃないから」「絵はかけないから…」と口にする人もいる。

でも例え、本人が「下手」と思っていても、一生懸命かかれたものは伝わるものがある。
もちろん絵が苦手と意識するお坊さんに、無理に絵を描いてとは望まないけれどでも、例えば、お子さんを亡くされた親御さんに、お戒名を授けるにあたって、その子の大好きだったぬいぐるみやおもちゃをお借りするか、写真をとってそのお戒名をお伝えするときに、それらの絵を描いて渡すといったことがあれば、その絵自体の上手さ、下手さ以上に、

「そういうことをお坊さんがしてくれた」

ということに心が癒えたり、心に力をもらうのではないか。

やから、ちょっとみなさま、そんな自分の中にある表現する力、「アーティスト性」を生かしてみませんかと、今後の僧侶の研修などで伝えてみたいと思った。
100人の中で99人スルーしたとしても、1人誰かがはじめてくれると、その向こうには多くの遺族がいるから。

すこしだけ余談、

グリーフケアは興味のあるお坊さんだけが選んだらいい「メニュー」ではない。どう遺族と向き合うのか、死別や喪失はすべての生きとし生けるものが経験する。その苦しみにどう向き合っていきますか?は僧侶であれば一度は考えてほしい。
ひとりひとり、できること、できる形は違うかもしれないけれど。

このお二人の上人は自らが持っている能力、身体性すべてをつかって向き合ってきたのだろうと思う。

・・「一人称のグリーフを生きる」・・

実は行誡上人も、ご自身のお寺を任せようと期待していた弟子を殺されたご経験があります。
次を任せる弟子は、子のない出家にとって、わが子ともいえる存在です。斬られて冷たくなりゆくわが弟子を最後まで助けようとなさいましたが、どうにも救えませんでした。
たった一人の大切な存在すら救うことができなくて……。この世の無常や自己の無力をお嘆きになられたことでありましょう。
恨んでもどうにもできない現実の先に、行誡上人は、目前で切り殺されたお父様の遺言を胸に求道された法然上人の想いを何度も思い起こされたと思います。

(岳彦さんが紹介しているエピソードより)

・    ★    ・

「素晴らしいお坊さん」だった人を想像すると、誰かを救っているイメージを思い浮かべがちだが、この紹介を読んだときに
「あぁ、行誡上人は一人称のグリーフにしっかり向き合っていったんだ」ということが伝わってきた。
理不尽な死、喪失は(死はすべて「理不尽」という考え方もあると思いますが)怒りや恨みといったグリーフも生み出す。
そんな中でその感情に向き合い、グリーフを生きたお姿が見られ、それゆえに、きっと多くのご遺族、死別や喪失を経験したひとにも真につながることができたのだろうと感じた。

その2 「救いやケアは間に生まれる」を体現

ある日、弟子の一人が、師である行誡上人には言いにくいながらも、乞食に敬礼することをやめてもらいたいと伝えました。すると、行誡上人はにっこりと微笑みながら次のようにお答えになりました。

「盗みをすることもなく、あのように正直に食を乞うことは尊いことです。わたしはそのように悪行を犯さない立派な心がけを尊敬しているのです」と。

行誡上人が、助ける人と助けられる人との間に区別を立てることなく、等しく佛となる可能性を持つ存在として、常にあらゆる存在に対して尊重と敬意をもって接しておられたことが伝わってきます。

(岳彦さんが紹介しているエピソードより)

・    ★    ・

これを読んだとき、日頃自分が思い描いている「ケア」や「救い」の捉え方を思った。
僧侶を対象として研修会の現場で

「グリーフケアは、遺族の話を聞いてあげることだと思ってます」

とよく耳にする。

「聞いてあげる」ってなんか違う感じがすると思った。わたしか「聞かせてもらう」「聞かせていただく」と思ってきたし、相手の話に力をもらうこともある。

(宗派によりますが)
「どうしたら救ってあげられるか」といったことも聞こえてきます。

でも、大事なのは、どちらが救うとか、救われるを越えて、その間に「救い」が生まれることなのではないかと。「あなたのおかげで救われました」という言葉に、こちらが生かされ、救われることもある。どんな教科書、書籍なんかよりも、生の遺族の言葉に、深い学びを得させてもらうこともある。どちらが上とか下とかなんてない。

行誡上人のもっている「まなざし」は等しいものとして、自分もグリーフを抱え、相手もグリーフを抱える存在、そして、それぞれにもっている「力」も信じている人だったのだろうと思う。

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【行誡と弁栄展のご案内】

開催期間:2019年5月11日(土)~19日(日)
開館時間:土日 10時~17時/平日 14時~19時
開催会場:両国回向院 本堂3階
     東京都墨田区両国2-8-10
アクセス:JR総武線両国駅西口より徒歩3分
     地下鉄大江戸線両国駅より徒歩10分 
拝観料:無料
お問合せ:aketamaster01@gmail.com/ 090-4340-1813
担当:金田
主催:山崎弁栄讃仰会・両国回向院
後援:在日ベトナム仏教信者会
事務局:光照院 吉水岳彦
    東京都台東区清川1-8-11

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