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大学の原風景 -90年代に大学生であった者として

説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。(蓮實重彦「物語批判序説」)


久しぶりに五月祭に足を運びました。天気の良い日曜日、東大本郷キャンパスは大勢の人で賑わっていました。大学を卒業してはや24年。それでも、キャンパスに足を踏み入れると自分が大学生だった頃の記憶と感覚が鮮明に蘇ります。


87年に刊行された「ノルウェイの森」は、純文学としては歴史的なベストセラーでした。文字どおり誰もが読んでいた小説です。事実、ぼくが大学に入った当時、「ノルウェイの森」を読んでいない大学生なんてただの一人もいませんでした。多くの大学生がこれに飽き足らず、「風の歌を聴け」の洗練された世界に共感し、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の不思議な世界に酔いしれていたその時代、大学生は誰もが「独自」の村上春樹評を持ち、何がいい、どこが好きだと議論に花を咲かせていたものでした。ぼくのお気に入りは「羊をめぐる冒険」で、ぼくは文体以上にそのストーリーが大好きでした。

また、90年代初頭の大学生にとって、知はファッションそのものでした。あるいは、バブル経済の下高度消費社会を謳歌する日本にあって、知は消費の対象となっていたと言えるのかもしれません。実際、西部邁氏や村上泰亮氏が東大を辞任した中沢事件は当時の誰もが知る一大スキャンダルでしたし、事件にまつわる本は売れ、事件のせいもあってか大学の内部構造をテーマにした筒井康隆氏の「文学部唯野教授」はベストセラーとなっていました。船曳建夫先生らによる「知の技法」が刊行される直前の当時、東大で一番有名な教授は蓮實重彦氏その人で、そのネームバリューが多くの大学生の足を彼の映画論のゼミへと運ばせていました。(残念ながら、そのほとんどがゼミの内容についていくことができず、初回のみでドロップアウトすることになったのですが) そしてまた、多くの大学生が、難解な蓮實先生の著書に目を通していたものでした。ぼくも例に漏れずそんな大学生のひとりでした。

言うまでもなく、こうした大学生たちの行動は極めて説話論的です。「独自」の村上春樹評はどこかの誰かの村上春樹評とまったく同質のものであるほかなく、彼らが知を求めたのは自身の選択ではなく誰もが知を求めていたからに過ぎませんでした。まさに大学生は、「物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となる」ことによって、その信奉する蓮實先生の批判の対象となっていたのでした。

そういう意味では、難解であるがゆえに大学生たちが容易に蓮實氏の文章を理解できなかったことは幸福なことだったと言えるかもしれません。反対に、村上春樹を含む同時代の作家の文芸批評である「小説から遠く離れて」が、蓮實先生の中でも比較的平易な文章で書かれていて、その内容が理解できてしまったことは、不幸だったとも言えます。とくにぼくの場合、そこで説話論的な物語として取り上げられていた「羊をめぐる冒険」が一番のお気に入りだったのでなおさらです。なにせそこでは、ぼくの好きなストーリーこそが問題だとされていたのでした。

大学生たちは、知に飛びついたはいいのだけれど、知について知れば知るほどその批判の矛先が自身の凡庸さにあることを知ったのでした。そうなった以上、もはや、知を自身のものであるかのように語ることだけは断固として避けなければなりません。自らが求めた結果与えられた用語と語法を振りかざす行為は、求めずともどこかにある問題をどこかにある物語で語ってしまう世界にあって、もっとも説話論的であり、したがってもっとも恥ずべき行為だったからです。そこに至ったとき、賢明な大学生に残された戦略は、自身が消費の対象として知を手にしてしまったことを素直に認め、自分が手にしているものが自身のものでないことを自覚すること以外にありませんでした。自覚したうえで語るには留保と勇気が必要です。そこで、大学生たちは、それが共通の認識であるにもかかわらず知を直接語ることを避け、その知を援用して目の前の世界に広がっていた現象を遠慮がちに語るようになったのでした。

以前、ある方から柴田元幸先生の「動機は不純で結果は純というの、ぼくは好きです」ということばを紹介していただいたことがあるのですが、知をファッションとして求めた大学生たちは、こうして知性を手に入れたのでした。彼らが知性を手にすることができたのは、そこが、たとえ消費の対象としてであったとしても知が流通する空間であり、授業や特定の科目への拘束の少ない自由な場であったからでした。それは決して目的的、専門学校的教育では実現できないことだったように思います。


90年代の大学生と違い、現代の大学生たちは、ずいぶん真面目になったように思います。授業をさぼり、雀荘に入り浸って煙草を吸いながら村上春樹論を語り合っていた大学生像は、もう時代遅れなのかもしれません。今の大学生たちが見ている大学の景色は、ぼくにとっての原風景とはずいぶん異なるものになっている可能性があります。

キャンパスを歩いていると、たまたま自分のいたサークルの屋台が目に入りました。後輩たちが売っていたサイコロステーキを食べ、自分もOBだと告げると、一緒に写真を撮りましょうと言ってくれました。彼らはいまでも昔と同じ場所でテニスをしているそうです。30年近く経ってもサークルが綿々と続いてくれていることをうれしく思いながら、五月祭を後にしました。せめて大学くらいは、いつまでも知を扱う場であってほしいと切に思います。

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