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こんなひといたよ 第13話「人生のキャンパスに何も描かない男」

私の読んだマンガで出会った人たちの物語を紹介するシリーズ「こんなひといたよ」。

今回も、古谷実の「わにとかげぎす」から。「人生のキャンパスに何も描かない男」をお送りする。スーパーの夜警を辞めた富岡。新しい仕事を探していたが、見つかったのはまた夜警の仕事だった。そこで出会ったのは自分に似た男だった。

***

斉藤は、富岡の新しい職場の先輩だ。歳は30代頭くらいの若い男だ。坊主頭で柄のないチノパンにシャツ。目に力がなく表情に乏しい。この日は、2人の顔合わせの日。一通り施設内の警備箇所を確認したあとに、警備員の詰め所に戻ってきた。

「それにしても富岡さんよっぽど夜警好きなんだね。やっぱ一人でのんびりやりたいんだ?」斉藤はあまり表情を変えずに聞いた。

「いや本当は違う仕事探していたんだけど…時間的にものすごくあせってて。最初に受かったのがたまたまここだったんだ…」と富岡は苦笑いをして答えた。

「何で?夜警いやになっちゃった?」
「うんちょっとね…さすがに7年やっていると…」
「…孤独におそわれた?」
「うん…何かね、ある日突然、ガブガブってやられちゃった」

斉藤の目はいやに冷たい。「きみの気持ちはお見通しだよ」とでも言いたげだ。富岡はとちょっと下を向きながら答えている。こちらも「図星です」という感じだ。

「オレ、前のところと合わせてもうこの仕事11年目だけど…そんな事一度もないよ…」
「ええっ11年!?君11年もやってんの!?オレより大ベテランじゃないか!!」富岡は驚いた。

斉藤は語り始めた「あのさぁ…例えば真っ白い紙があって、そのかたわらにありとあらゆる色のマーカーがあって…何か描いてもいい雰囲気だったら、ほとんどの人が何か描くと思うんだよね。まわりの人達も描いているし。そのうち描くのが当たり前になって…なんでもよかったのに人よりもいいものをってなって。オレはさ…昔から本当に何も描く気にならないんだよ…それに真っ白もアリだと思うんだよね。きれいだし。」

自分は孤独におそわれない。なぜなら真っ白でいいから。「富岡さんも途中まで真っ白でいいやと思ってたんだけど…思わずチョイチョイと何か描いちゃったんじゃないの?しかも遅れた分を巻き返そうと今思いっきりあせってんじゃないの?」

富岡はコーヒーカップを持ったまま固まって若い男の話を聞いていた。すぐには言葉が出ない。少したってようやく口を開いた。「そういう事なのかな?なかなか興味深い話だねぇ…」同意もできないが、否定もできないといった感じだ。

「ところで斉藤君…君は友達いるのかい?彼女とかいるのかい?」
「いないよ…いらない…わずらわしいだけだ」

「それって…寂しくない?」と遠慮がちに言葉を絞り出した。斉藤はシュッとした顔で「ぜんぜん」と答えた。

***

心を痛めない方法として最もいいのは「何も期待しないこと」だと思う。誰かに期待する、社会に期待する、自分に期待する…期待するからそれが期待通りにいかなかったときに傷つく自分がいる。

真っ白い紙があってもそこに何も表現しないのが最も安全だ。何か描けば、人から何か言われるかもしれない、自分の思ったようにはいかないかもしれないのだ。だったら何も描かない方がいい。それが斉藤君の考え方だ。

一方で、ただ安全だとか、心を痛めずに生きたいきていくことが、本当に自分が望んだことなのか?多少危険はあっても、もっと人とふれあって、悲しみやつらい思いも抱えながらも、ちょっとはある楽しさや喜びを感じれるほうがいいのではという考えもある。そんな考えが、富岡には出てきたという事だ。わずらわしくても友達や彼女がいる人生の方がいいのではないか…。

この斉藤君もひょんなことからわずらわしい男女関係に巻き込まれ…その結果として最終的には、真っ白い紙に何か描くことを選択するのだった。

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