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【感想記事】表現者・ファンと炎上社会 ー女性と性表現2ー :「現場編」シンポジウム

本記事は、3/23に開催されたオンラインシンポジウム「表現者・ファンと炎上社会 ー女性と性表現2ー :「現場編」」を視聴させて頂いた感想です。感想を述べるにあたってシンポジウムの内容紹介を含みますが、「私の受け取り方・解釈」が入っています。当然ながら正確であろうと努めますが、登壇者の方の発言やその意図、趣旨を必ずしも正確に反映していない可能性がございます。何卒ご了承ください。

以下のオンラインシンポジウムを視聴してきました。(登壇者の方にも読まれるかもしれないので、今回、いつものゆっくり文体ではなく、普通の文体を使います。)

3/23【オンラインシンポジウム】表現者・ファンと炎上社会 ー女性と性表現2ー :「現場編」(登壇者:茜さや、松浦李恵、YANAMI、中川譲)より


発表は、上の画像の通り、茜さや様、松浦李恵様、YANAMi様、中川譲様の順で行なわれ、どの内容も興味深く拝聴させて頂きました。「現場編」の名の通り、みなさま第一線で表現活動に携わっており、シンポジウムはそうした方々から話を伺えるたいへん貴重な機会でした。

まえがき:表現者に届く「表現の自由」の重要性

さて。シンポジウムの感想に入る前に、ちょっと私の思いなどを語らせて頂きたく。

「実際に表現の現場で活動している人」
「その表現物が好きで応援している人」(すなわち、私を含めたネットで「表現の自由界隈」と呼ばれる人たちのおそらく大半)の間には、表現の自由の危機に対する認識や知見において極めて大きなギャップがあります。

そうしたギャップは、しばしば深刻な「表現者と消費者・応援者の乖離」を引き起こします。

例えば、キャンセルカルチャーについて「イメージが悪くなった(悪くされた)表現が、企業や地方公共団体といった主体の判断によって取り下げられるのは、やむを得ないのでは?」等と、普段は表現の自由を応援する立場を取りながら、急に敵対勢力に転身する人も散見されます。

また、クレジットカード会社や大手ソーシャルメディア企業、EC業者による「自主規制」もほぼ同様の課題を抱えています。「自主規制は企業側の自由であり、表現者は嫌なら他所へ行くか、自分で起業すればいい」という(現実的には相当に乱暴な)意見を採用する人も珍しくありません。

こうした意見が表現規制派や、あるいは熱心な資本主義者から提示される分には何の不思議もないですが(「思想が違う」と理解できます)、基本的人権としての「表現の自由」を守りたいという思想を持つなら、相反するものでしょう。

しかし、こうした人たちは、特別な悪意をもって表現者の自由を奪おうとしているというより、単なる無知・無理解に起因するところが大であると(やや希望的観測も込めつつ)推察しています。

基本的人権の趣旨に立ち返れば、「表現者が実際に(それこそ現場レベルで)享受できる自由」を守ることが大事なのであって、規制を行なう主体が国家なのか大手民間企業、業界団体なのかは、自由を奪われる「表現する人」からすれば、結果として「やりたい表現ができない」「せっかく作った表現物が消される」点において同じです。

実際、「今回の削除・撤回・取り消しは、国によるものではなく、民間企業によるものだから、表現の自由的にセーフな規制だよ」と声をかけることが、表現者にとって何か慰めになるでしょうか。表現者は、なるほど仕方ないなあと頷いて、政治的に正しい表現(ポリティカルにコレクトな表現)に努めなければならないのでしょうか。

そうだとすれば、ずいぶん不自由な社会であり、憲法上で保障すると謡った「表現の自由」は、極めて貧弱かつ脆弱な理念と言わざるを得ません。

そのような不自由な社会になることを実質的に是認しているのが、キャンセルカルチャーや自主規制の肯定論です。そもそも私は一般にはかなり不愉快に思われるであろうものも含めた、さまざまな表現物を楽しみたいのです。「表現の自由」がキャンセルカルチャーや自主規制に対抗しないのであれば、それは現実として「表現者の手元には届かない表現の自由」に成り下がります。

犯罪や災害などで生存権が脅かされる状況があれば、基本的人権を守るために国家が動くべきだというのが当然視される一方で(「国家が直接に人を殺している訳ではないので、勝手に自己防衛してください」と放置したら、間違いなく非難されるでしょう)、「表現の自由」に問題が変わると、結構な人数が急によく分からなくなってしまうのが実情です。

根本的な思想の違い(表現規制派)があるなら已むを得ませんが、「表現者を応援したい。自由な表現が流通する社会であってほしい」という思いを持ちながら、表現者とすれ違いを起こしてしまうのは悲しいものです。解決可能なギャップであれば埋めたいというのが真情です。

貴重な現場の声が聴ける今回のシンポジウムは、この点においても意義深いものであったと思います。

少し冗長になりましたが、以下、ささやかながら個別の感想を書かせて頂きたいと思います。(いずれも掘り下げようと思うとそれだけですごい文章量になってしまうので、やや簡略に書きます。)

茜さや様:「グラビア表紙は女性差別なのか?若手アイドルのより良い表現現場のために」


転職サイトに素材として使用された画像が原因で理不尽な炎上被害を受けた茜さや氏は、主としてグラビアアイドルとして活動されたご経験に寄せて話されていました。

グラビアアイドルの方にとっての「表現の現場」は、契約から始まり、撮影が行われ、それが書籍なり広告なりといった形で流通する一連を流れを指すでしょう。

特に取り上げられたのは、業界における「(無知で交渉力にも乏しい)若年者の契約の問題」と「撮影現場の危険性」でした。

少々改善傾向にもあるものの、契約が杜撰、あるいは契約についてほとんど説明されないといったことが往々にしてあり、一方的に不利な内容となっていることも珍しくないとのこと。

しかし、契約については、そもそも秘密保持義務があるため、原則として「こんなに不利な契約だった!」と大っぴらに騒ぐわけにもいかず、必然、知見は共有されず、ネットでもそれほど話題になりません。不利な契約の押し付け、その実態については、私も知っていることが(実務者からすれば)「無い」と近似して差し支えないほど乏しいのが正直なところです。

特に若年者だと対抗手段もないことが多く、社会経験のある大人なら詳しい人に相談する手くらいは取れますが、そうでなければ難しいでしょう。社会的にもっと厳しい目を向けられる必要があります。

また、グラビアアイドルという仕事の特性上、性的被害のリスクにもさらされており、「ベッドのある個室の撮影現場に男性と二人きりにされる」などの状況もしばしば生じているとの紹介がありました。聞いてもいないような露出度での撮影をその場で教養に近い形で依頼されることもあり、安心とは程遠い環境にあるとのことでした。(そうでないまともな現場ももちろんあるそうですが。)

茜さや氏は、SNSなどで「自分の発信力」があると、牽制として一定機能するという話をされ、なるほどと思いました。加えて、この発信力ともつながりますが、「ファンに見られている」という状況があるとありがたい(これまた牽制になる)とも話されており、「応援しているアイドル等がいるなら、積極的に注目してあげてほしい」との旨で「ファンにもできること」が提示されました。

グラビアも性的表現として攻撃の対象になりやすく、ネット炎上などの騒ぎになればファン層も反論・対抗を頑張るのですが(わかりやすいので)、一方で契約の問題、現場の危険性などになると「(ファン、消費者は)知らない」という問題が立ちはだかっているので、茜さや氏の発表は重要な観点を与えてくださったものと思います。

松浦李恵様:「自己表現としてのコスプレ」

宝塚大学 東京メディア芸術学部の松浦先生からは、コスプレイヤーの方を調査・研究した内容について発表されました。

まさに「現場」を調べた研究内容で、具体的には普通の家庭のなかでどのようにしてコスプレ衣装を制作しているのかなど、非常に密接なフィールドワークに基づく内容で、当然ながら「知らなかった!」の連続でした。

これは発表の趣旨からはズレた雑感になってしまうかもしれないのですが、ネットで人を叩くとき、基本的に文字を通しての交流(非友好的であっても)なので、当事者の「生の実態」を単に見ることだけでも、相互の思いやりを促す点で意義深いものがあるかもしれません。

完全に敵対する思想であれば衝突は仕方なく、むしろ批判・非難の活発な応酬があるべきとも言えますが、リアルなら共感によってソフトに対処できる問題も、ネットだと「殴り合い」になってしまうケースも多く転がっている気がします。

研究内容に深く踏み込めるほど私に当該領域に関する知見がないので、松浦先生のご発表については、本当に「勉強させて頂きました」という印象でした。

プロフィールを拝見しますと、「家の中における趣味活動のフィールドワーク:コスプレ衣装製作にみる人工物と家族とのインタラクション」(日本認知科学会)、「人工物の利用を通した成員性と「境界する物」:キャラクターを支える遊びとしてのコスプレを対象に」(日本質的心理学会)など研究成果を世に出しておられますので、こちらも近日に拝読させて頂こうと思います。

YANAMi様:「イラストにおける男女の描き分けは差別なのか、未成年の表現者と表現」

いずれの発表もそうですが、極めて興味深く、とりわけ表象(イラスト表現)についての詳細な解説は、門外漢の私では「書籍だのネットだの調べてもたどり着けないな、これは……」と感じ入るものでした。

(なお、YANAMi先生には、私がふだん使用させて頂いているアイコン・ヘッダーイラストをご制作いただいたというご縁があります。誠にありがとうございます。)

萌え絵(美少女イラスト)に関する表象批評といえば、表現の自由界隈的なネット空間において真っ先に思い出されるのは、小宮友根氏の「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか」(2019)および「女性の描かれ方めぐる「炎上」はなぜ起きる?」(2022)でしょう。

私も以前noteで取り上げ、「ヌスバウムやイートンの論文に基づくとしても、小宮氏の主張は間違っている」との趣旨で批判したことがあります。(YANAMi先生の発表でも、イートン論文の話が出てきました。)


しかしながら、「表象の評論」という点では、趣味レベルですら絵を描かない私では届かない(正確に語ることができない)領域が当然にあります。実際、上記noteでもこの点はだいぶ手薄になっています。

もちろん、やろうと思えば無理やり何か語れなくもないですが、それをすると小宮氏の萌え絵表象評論が相当の批判を受けたように、専門家から見てまったく的外れな記事が出来上がるでしょう。(真剣に調べて考えて間違うのは致し方ないですが、「これを無理に語ると絶対間違う」と分かってて書くのは不誠実でしかありません。)

YANAMi先生の発表では数多くの話がありましたが、一部の例をあげますと、美少女イラストで「胸が大きく見える」のは、「リアルな日本人女性の6頭身ほどの体格を前提として、その上で女性的な憧れを反映して足を長くすると、必然的に肋骨が圧縮されて薄くなり、結果、Cカップくらいのつもりで描いても、現実にはなかなか無いような大きなサイズの見た目になる」といった経緯があるとのことでした。

感想記事を共有させて頂いた所、YANAMi先生から下記のコメントを頂きました! 上の私の記述につきまして不正確なところがあり、正しい説明をしてくださいました。誠にありがとうございます。(2024/03/31 7:30追記)

【YANAMi先生からのコメント】

感想記事ありがとうございます!
とても嬉しく拝読いたしました。
内容について、一点だけ少し表現を訂正させていただくと

"結果、Cカップくらいのつもりで描いても、現実にはなかなか無いような大きなサイズの見た目になる"



"結果、見た目上Cカップくらいのつもりで描いても、トップとアンダーを立体的に推測するとそれより1〜2段階上のカップ数になる"

にしていただけると、より正確です。

キャラクターのカップ数をアンダーバスト(肋骨の厚み)から推測しながら胸を鑑賞している人と、キャラクターの大まかなシルエットで胸を鑑賞している人とで、見えている「胸の大きさ」にかなりの落差が生じていることがままあります。
(デッサンをする人間は、全体のバランスを見るために後者「大まかなシルエットで胸を鑑賞」する視点になりがちです)

以上のような理由から、同じ絵を見ていていも「異常な大きさの胸」か否かの評価は受け取り手によってかなり変わります。

また、美少女イラストは「幼い=児童ポルノ的」という非難も受けやすいですが、YANAMi先生からは、実際の児童は目周辺の組織が未発達のため、美少女イラストの傾向(ものすごく大きな目)とは真逆に目が小さく、また黒目がちである点が指摘されました。すなわち、いわゆる「萌え絵チックな画風」は必ずしも幼さを志向しているものとは言えないということと思われます。

その他、ライブライブの広告で問題となった「スカートのしわ、影」の話などもされていて非常に得るところがあったのですが、ともあれ、こうした表象についての分析的な評論を正しく行なうのは当然ながら相応の勉強が必要であり、生半可なことは言うべきではないという思いを新たにしました。

少し話は逸れますが、小宮氏の記事は2019年・2022年のもので、私の批判記事は後者に反応する形で2022年と少々古くなっているものの、現在でも「萌え絵の何が悪いのかは、この小宮先生の記事を読めばわかる!」と出され、そしてありがたいことに私の記事も「それが間違っていることは、手嶋の記事を読めばわかる」とエックス上などでしばしばご紹介いただいています。

ただ、私の記事はキャッチ―でわかりやすくすることを優先して「ゆっくり文体」を採用しており、これはおおむね考え方を同じくする人たちには良いのですが、反論記事として提示する場合、相手に最初から「ふざけている記事」と受け取られて無視される面が否めません。

というわけで、内容的にはさほど変わらないのですが、近いうちに、「反論記事としてブチ投げる用」のゴリゴリ真面目文体バージョンをご用意しようと思います。

(余談ですが、実際、ダ・デアル文体の論文的な書き方のほうが私としては楽だったりします。論文調であれば、できるだけ退屈せずに読み進めてもらえるようにする工夫や、流し読みされても大きな趣旨は取れるように文章に冗長性を持たせる必要もなくなります。)

中川譲様:「キャラクターは何故愛憎を集めるのか」

最後を務められた中川先生のご発表では、特にステレオタイプ(中川先生は「ステロタイプ」と表記していらっしゃったので、以下合わせます)表現の問題と「萌え絵=性的搾取論」および「キャラクターとプロパガンダ」について扱われ、コーパス検索「中納言」や史料等を用いて分析的な議論をされていました。

コーパスから「ステロタイプ」の語が悪い意味でしか使われないことを定量的に示し、「対象Aは、〇〇(悪い意味しかない言葉)であるか否か?」(このイラストは、ステロタイプ表現であるか否か?)は疑似問題であり、Yes/Noで答えるべきではないという見解をまとめており、これは私があまり持ったことのない問題意識でした。

確かに、例えばいっとき特定のイラストを擁護しようと、この質問に正直に付き合い、「それはステロタイプ表現ではありません」とNoで答えれば、暗黙のうちに「もしもステロタイプ表現だったとしたら悪いが……」が含まれてしまう面があります。(かなり「レスバトル」的な話ですが。)

私が「ステロタイプ=悪」論でつっこんでくる人を相手にするとしたら、そもそもある表現を理解する(あるいはほかの人に向けて理解させる)のに、ステロタイプは時に必須であり、だれもが日常的に活用していることを指摘するでしょう。(今パッと思いつく限りですが。)

たとえば、もし学生向けの学習教材を宣伝するのにイラストを描くとしたら、そこではおそらく「ステロタイプ的な日本人学生像」が採用されるものと思います。

つまり、10代くらいの制服を着た、中肉中背の、おそらく黒髪の男女です。もちろん、現実の「学生」は多様かと思います。10代どころか夜間学校等に通う高齢者の場合もありますし、また学校に通っているとしても、制服があるとは限りません。

現実としてそれはそうなのですが、ではステロタイプ表現を排して、「金髪のアフロでものすごく太った性別不明の人物」などを描けばいいのかというと、それは学習教材の宣伝広告としては意味不明でしかないでしょう。

「一般化された何らかの定型の像」を通して物事を見るというのは、おそらく人間の認知そのものと切り離せないところであり、ステロタイプであることを理由にした非難は、突き詰めると自己破産するように思います。

さて。そのほかのテーマも私には知見のなかったもので、いずれも紹介していきたいのですが、けっこうどれも重量級で「ちょっと紹介」というのが難しいので、今後関連のあるテーマを扱う際など、機会があるときに語ります。

さいごに

またこのようなシンポジウムがあれば、ぜひ拝聴したく思います。登壇者の皆様、および主催された柴田英里様、本当にお疲れ様でした。

なお、今回は感想記事であり、また登壇者の方に読まれることもあるかなと思い、全文無料としております。マガジンにご登録いただいている者の方々には、また改めて新規テーマの記事をご提供いたします。

最後は、ご支援を頂ける場合にお礼のメッセージのみが表示される投げ銭エリアです。

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