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「表現の自由原理主義」について改めて述べる

ゆっくりしていってね!

「表現の自由原理主義」という言葉で、だいぶ前から継続的にちらほら揶揄されるゆっくりこと手嶋さんよ!

まあ私は旧Twitterで「別にそう呼んでもらっても構わない」と発言し、受け容れちゃってるんだけど、一度そもそもの話をしましょう。


私の原理主義とは、日本国憲法、すなわちまさにこの国の民意によって承認されている「原理」を、そのまま「原理」として守るべきだと主張しているだけよ。実はかなり穏当なのだわ。「民意で定めたルールを守ろう」としか言ってない。

この主張を、あたかも「イスラム原理主義過激派」みたいに間違った(行き過ぎた)主張だとされる方が変なのよ。

実際、イスラム教徒やキリスト教徒、あるいは菜食主義でもいいけれど、そう名乗った以上は、それが含む原理を守るのはむしろ当然よね。逆に「柔軟に教義・戒律を破る」「柔軟にたまにはお肉を食べる」ことこそ、特定の宗教教徒や特定の〇〇主義者としては破綻しているでしょう。

掟破りがやむを得ない状況もあるでしょうから、常に徹底しろとは言わないわ。現に世界的な宗教に関しては社会との摩擦を避けるため、ある程度の妥協はしているし、そこが長く続いた宗教の優れている所でもある。

でも、「最初から気軽に曲げていいもの」として認識するのは違うし、ましてや「俺は柔軟に教義・戒律・思想を実践しているから、柔軟でないやつより優れている。」と誇らしげに言うことではないわ。「破らずに済むよう、再発防止に努める」という方がよほど自らの主義主張に対して誠実な態度でしょう。

もちろん、もし人権思想およびそれに基づく日本国憲法に反対しているなら、確かにその人は「人権思想・日本国憲法の原理主義者」ではないでしょう。別にそういう意見もありだと思うわ。私も絶対的・普遍的に人権思想が正しいなんて思っちゃいない。繰り返すけれど、正当な民主的手続きで決定されたルールなんだから守りましょうと言っているだけよ。

また、この「原理主義」に反対する意見にしたって、結局は何らかの原理に基づいてなされているのよ。反対意見も、「手嶋の推奨する原理よりも、こちらの原理から導かれる結論の方が優れているから、こっちにするべきだ。」という形式を採らざるを得ない。これは「意見には根拠をつける」という当然の作法と不可分に結びついている。あらゆる政治的意見は原理主義であることから決して逃れられないわ。(「何の原理からも導出されていない主張」は、ただの気まぐれな言いたい放題に過ぎない。「妥協」する時だって、公共の福祉論のように「妥協の原理」がある。)

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