メモ・あやのん(さん)論


最も読んだnoterさん、ベスト3、高木さん、山ちゃん、ある船の話さん、というのが可笑しかったです。女の人たちの記事も相当読んでいるけど、全員、男の人というのが不思議です。これは現実ではなかなか起こらない関係だと思いましたw

といふことで、わたしの記事のことを紹介してもらった。
感謝のコメントも書き込まないまま、今日まで来たのは、嬉しいのだが当惑もしたからだ。

あやのんさんがわたしの記事を読んでくれたのは、わたしがあやのんさんの記事を熱心に読んだからだ。わたしの記事には人に読んでもらふ力が無い。自室に閉じ籠って呟く独り言だ。わたしの妻はわたしの記事の査読者だが、結果として告げられるのは「誰も興味を持たない」でなければ「誰もわからない」である。「誰も」は言ひ過ぎなのではないかと思ふが、わたしのことを知ってゐる唯一の人間である妻が言ふのだから、さうかもしれないとも思ふ。

わたしは限られた時間でなにかを読む場合、
評論文的なものなら
①自分の考へを少しでも揺るがしてくれるもの
文学的なものなら
②二度三度読み返したくなって、その度に発見のあるもの
がいいなと思ってゐる。

あやのんさんの記事は、①も②も充たしてくれてゐる。

わたしは、あやのんさんの書くものは、一種の私小説になってゐると感じてゐる。
三島由紀夫氏によると(「芸術について」『若きサムライのために
』所収)、小説家には二種類ゐて、ならうとする人となってしまった人とがゐる。
第一のタイプは、
「自分の人生との不調和を発見して、その不調和のギャップを埋めるために、言葉の世界に遊ばうとする」人で、さういふ人は、
「自分の人生の不満と、怒りと、夢と、詩とを、すべて一編の小説に凝縮させ」ようとする人たちだ。
そして、第二のタイプは、三島由紀夫氏の例では、カサノバで、
「天賦の才によって次々と女性遍歴をやり、その人生の美果を思ふ存分味はつた末に、もうやることがないときまつたところで、回想録を書き始めた」といふ人たちだ。

第二のタイプは、自分の生きて来た豊富な人生を振り返りつつ、今の心境や今の興味などを書き綴る。そして、この人に天与の文才があれば、書き綴ったものは日記であってもnoteの記事であっても文学となってしまふ。

第一のタイプの人の人生は貧弱で、それ自体に語るべきものはなく、作家自身も空虚である。だからこそ、言葉だけで自分の人生や自分自身に関する虚構を築かうと必死になる。このタイプの人は、当然、若いときから、たぶん十代にはすでに小説や詩を書いたりしてゐるはずだ。

もちろん、十代あたりでは熱にうかされたやうに詩のたぐいを書く人は少なくはないだらうが、自分の人生が始まってゐる人は、さういふものに全力を投入する必要は無いから、おそらく二十歳を過ぎれば、詩のことは忘れてゐるだらう。

あやのんさんは、第二のタイプである。あやのんさんは教師をしてゐたさうだが、教師の仕事に誠実に取り組んだので、教師時代のことを振り返れば、振り返るたびに一つの記事が書けるはずだ。

もし、第一のタイプが教師といふ職業に就いてゐたら、授業をどう行ふかなどには関心を持たない。生徒にも(性的な興味を持つ以外は)関心はなく、学校にゐても考へるのは、小説のネタになりそうなものごとを探すことと、どうにかしてこっそりと小説を一行でも書く時間を仕事中に見つけ出すことだけだ。
このタイプが小説家になっても、ほとんどが人生は空虚なままで、「自分の人生の不満と、怒りと、夢と、詩とを、すべて一編の小説に凝縮させ」ようとすることで一生を過ごす。

三島由紀夫氏が文武両道を掲げたのは、あの『金閣寺』の主人公と同様、自分の人生を「生きよう」と思ったからだが、かういふ例はめったになくて、わたしにちょっと思ひ浮かぶのは、二葉亭四迷とか詩人のランボーとかいった人くらゐだ。凡人から見れば、せっかくあれだけの文才があるのに、文学から離れて普通の人たちが生きてゐる普通の人生を生きて死んでしまったのは勿体ないといふ気がするが、だが、本人たちにしてみれば、天与の才によって築き上げた言葉の蜃気楼の中に閉じ籠って実人生が始まらないまま死んでいくことは決して幸福ではないのだらう。

第一のタイプになるのは、また三島由紀夫氏の言葉を借りると、
「感受性の傷つけられやすいもろさの中に、自分の人生との不調和を発見」する人たちである。だから、文才でなくてもいいから、とにかく何か天与の非凡な才能がなければ社会に居場所はなく、早晩、さまざまな種類の人生の敗北者となってゆく人たちである。

面白いのは、人生に敗北しないくらゐの強さとは、或る意味、図太さであるから、さういふものを持って実人生をたくましく生きてゐる一般の人には、自分には無い「もろい感受性」といったものにないものねだり的に憬れる人もゐることだ。
かういふ人たちが純文学系小説のファンとなる。そして、純文学領域の職業作家にとってはけっこうありがたく、層の厚い読者となってゐる。

わたしは、日本の小説家がほとんどすべてさうであるところの、第一のタイプの作家にはもう満腹してゐる。第二のタイプの人の書くものがよみたい。

それで、わたしはあやのんさんの記事を熱心に読み始めた。
わたしがしつこく読むのに応へて、あやのんさんは、義理堅く、わたしの記事を読んでくださった。

わたしは典型的な第一のタイプだ。
わたしの記事は、貧弱な人生を歩んできた、空虚な人間が、自分にとって実感できる唯一の現実である言葉―その言葉を使って、自分の居場所といふ蜃気楼を生み出そうとして綴ったものである。
読んでも意味が分からないといふのが、第二のタイプの人を含め、実人生を生きてをり、その人生に関しても自分のことについても語りたいことがいくらでもある人たちの、そんな人たちの感想であるべきだ。

妙な文章だ、へんな奴だと感じながら、それでも、読み進んでいただいて、わたしは、当惑すると共に、やはり、とても嬉しかった。
そして、もっぱら当惑の気持ちによって、これを書いた。



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